「維新の三傑」を引き継ぎ、
安定的な国家統治を実現した第二世代

 維新の三傑がいなくなった後の明治国家の成り立ちや特質を考えると、明治維新の第二世代ともいうべき伊藤博文(1841~1909)と山県有朋(1838~1922)が「(第二世代としての)明治国家建国の父」であるという意見もあります。

 西郷・大久保・木戸に比べて人物的魅力は乏しいかもしれませんが、第一世代の「維新の三傑」が描いた明治新国家の建設という事業を引き継ぎ、現実主義で安定的な国家統治を実現した第二世代の政治手腕は、認めざるをえません。伊藤は議会政治・内閣制度・憲法の制定、山県は陸軍の創設・拡充という近代国家にとっての一大事業を見事に成し遂げ、それぞれの分野でも「父」なる称号を得ます。

伊藤博文(1841~1909)

 伊藤が長州藩出身で、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、幕末期には高杉晋作の薫陶を受け、高杉亡き後、木戸と行動を共にしたことはよく知られています。師の松陰は、伊藤を「なかなか周旋家(しゅうせんか)になりそうな人物」と評しました。人から好かれ、交渉が上手という意味です。木戸は、「剛凌強直(ごうりょうきょうちょく・強く正しく正直)」と評しています。「維新の父」や「維新の三傑」からのこうした評価は、伊藤が理念を持つ政治家へと変貌することを見抜いていたのかもしれません。

 伊藤は、政治家としての理念に従って、大日本帝国憲法の制定をはじめ、議院法などの法律や皇室制度を定める基本法の制定、近代的な内閣制度や官僚組織の構築、宮中の制度や儀式の改革、さらには政策の立案と政権担当能力のある本格的な近代政党を目指した政友会の創立などを実現しました。

 これらの功績から、伊藤は、「日本の憲法制定の父」「議会政治の父」「政党内閣の父」などとも称されますが、やはり近代的な内閣制度の骨格を確立し、初代内閣総理大臣に就任したことからも、近代日本の「内閣の父」こそが、彼にふさわしい称号でしょう。明治維新の第二世代として堂々たる政界の「父」となった伊藤ですが、初代内閣総理大臣就任時の年齢は44歳で、これは首相就任時の最年少記録としていまだに破られてはいません。

 伊藤は、「明治国家建国の父」として政治的手腕を十分に発揮しましたが、仕事ぶりの割に評価が高くはありません。たとえば、大日本帝国憲法の制定という業績は、本来であればもっと評価されてもよいのですが、これがかえって、戦後日本での評価の足かせとなりました。敗戦後の日本では、大日本帝国憲法は保守反動的なものであり、戦前の日本の民主化の可能性を狭めたと批判されたのです。また、伊藤には、韓国統監として韓国の民族主義を弾圧した植民地主義者というレッテルも貼られています。

 しかし、近現代のアジアやアフリカ諸国で、旧体制を壊し新たな政権が多く成立したにもかかわらず、議会政治を定着させ近代化に成功した国はきわめてまれであることを考えれば、明治維新後に近代国家樹立を目指した「維新の第一世代」が担ったものより、はるかに困難な憲法発布、議会政治の確立という大事業を成し遂げた彼の功績は大きいはずです。

 一方、山県は幕末に長州藩の奇兵隊に入隊して頭角を現し、明治新政府で軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いたことで「国軍の父」とも称されています。