自然科学の博物館に貢献したもう一人の「父」

 これに対し、自然科学系の博物館づくりに貢献したのが、もう一人の「日本の博物館の父」、田中芳男です。田中は、信濃国下伊那郡(現長野県飯田市)に生まれ、名古屋の伊藤圭介(けいすけ)門下で蘭学・本草学を学んだ後、幕府蕃書調所に出仕します。

 1866年(慶応2)には、パリ万国博覧会に派遣され各地の博物館などを視察し、博覧会と博物館について学びました。なかでもパリのジャルダン・デ・プラントという、自然博物館、動物園、植物園を含んだ広大な施設は、田中の理想像となりました。

 帰国後は、開成所御用係、大学南校を経て、文部省博物局の役人として、1872年(明5)に開催された湯島・大盛殿の博覧会で実務を担当します。その後、ウィーン万国博覧会、フィラデルフィアの万国博覧会にも派遣され、自然科学と殖産興業に寄与する科学産業博物館の創設を構想し、町田らと博物館の建設を推進しました。

 内務卿大久保は、田中の構想にあった学園公園をつくり、第一回内国勧業博覧会を開催することを決定し、博覧会後には博物館と動物園を建設することを約束しました。こうして、1876年(明治9)に上野公園が開園し、1877(明治10)に第一回内国勧業博覧会が開催され、田中は御用係を務めています。そして1882年(明治15)、わが国最初の博物館と動物園が開園し、これらを含む学園公園(上野公園)が誕生しました。

 殖産興業発展における田中の業績はこれにとどまりません。亜麻の栽培、輸入植物の栽培試作(白菜・アスパラガスなど)、西洋りんごの接木、コーヒーの木の栽培、製茶共進会をはじめ共進会の開催、ソメイヨシノの発見、田中ビワの発見、洋風並木の導入、凍冷蔵庫の紹介、また、大阪舎密(せいみ)局(舎密=化学の意味)の創設、伊勢の神宮農業館と神宮徴古館の創設、駒場農学校(現東京大学農学部)の発案など、まさに殖産興業に尽くした生涯でした。

 田中はまた、多くの新植物を発見し、『垤甘度爾列(ドカンドル)氏植物自然分科表』を著すほか、日本で初めて動物学と題した『動物学初篇哺乳類』を出版したり、「綱」「目」「科」「属」「種」「甲殻類」「爬虫類」などの訳語を初めて使用したりと、自然科学分野でも先駆的な功績を残しています。

 漢方医の父・隆三から「いやしくも人として、この世に生まれたからには、学んで、人の人たる道は、自分相応の事をして、世の中の益をはからなくてはならない」という教えを幼少の頃から受けた田中は、そのとおりの生涯を貫きました。

 同じ年に生まれ、同時代を生き、共に「日本の博物館の父」と称される町田と田中ですが、かたや人文系、かたや自然科学系というように、異なる博物館を目指したことから、一説によれば、二人の間に意見の対立があったということです。真偽のほどはわかりませんが、町田には「文化財保護の父」、田中には「博覧会の父」という、「日本の博物館の父」とは別の称号があったことに違いが表されているといえるでしょう。

北海道ビール生みの親

 2005年(平成17)9月23日、北海道知事公館前庭に一人の男の胸像が建立されました。建立のきっかけになったのが、高橋はるみ知事の2003年(平成15)7月の道政執行方針演説です。知事は、演説のなかでこの男の北海道での功績を取り上げ、これが契機となって、胸像建立の運動が起こり、知事の熱心な働きかけもあり実現したのです。

 この男の名は、薩摩藩イギリス密航留学生の一人、北海道においてビール事業を創始したとされる村橋久成です。

村橋久成(1842~1892)

 明治初期のビール事業は、ワイン事業などと同じく殖産興業の一環として官営事業としてスタートします。1876年(明治9)、北海道開拓使によって官営の「開拓使麦酒醸造所」が設立され、後に民間に払い下げられ、1888年(明治21)に札幌麦酒(現サッポロビール)となります。これが今日まで発展しているのはご存じのとおりです。

 開拓使麦酒醸造所の設立に、北海道開拓使の官吏で建設責任者としてかかわったのが村橋です。1866年(慶応2)に帰国した村橋は、戊辰戦争に参加し、黒田清隆(きよたか)らと箱館に向かい、榎本武揚(たけあき)に降伏を勧める交渉を任されました。黒田から絶大な信頼を得た村橋は、黒田の開拓次官就任に伴い開拓使に出仕し、イギリスで見た近代産業を北海道で実現すべく尽くします。

 その一環として「開拓使麦酒醸造所」の設立がありました。当初、東京での建設が予定されていたのを、北海道での建設へと政府が変更したのは、村橋の強い訴えがあったからです。村橋は、麦汁を摂氏10度以下に冷やして発酵させる本場ドイツの技術によるビール醸造を目指しました。それには大量の氷が必要です。そこで、ドイツの気候に似た北海道が最適であると考えたのです。北海道でのビール醸造の道を拓いた村橋が、「ビールの父」と称されるゆえんです。

 村橋は、開拓使の官吏として北海道産業の近代化の基礎を築いたわけですが、1881年(明治14)の北海道官有物払い下げ事件発覚の直前、突然辞職して行方をくらまします。托鉢僧に身を変えて行くあてのない行脚放浪の果て、11年後の1892年(明治25)9月25日、神戸の路上で行き倒れになっているところを発見され、三日後に息を引き取りました。

 村橋を含む薩摩藩出身のイギリス密航留学生17名(総勢19名のうち2名は他藩出身者)の名は、鹿児島の玄関口JR鹿児島中央駅の正面には、「若き薩摩の群像」碑が立っています。
(つづく)

「薩摩藩イギリス密航留学生」五人の墓所
五代友厚墓所(大阪市営南霊園阿倍野墓地・大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋)
寺島宗則墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
町田久成墓所(津梁院・東京都台東区上野桜木/法明院・滋賀県大津市園城寺町)
田中芳男墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
村橋久成墓所(青山霊園・東京都港区南青山)

※五代友厚写真、およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ
寺島宗則写真出所:鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
村橋久成写真出所:サッポロホールディングス