日本の電気通信の父

 五代が中心となって薩摩藩の留学生派遣を進めた時点で、松木弘安(こうあん)こと、後の寺島宗則は藩内唯一の渡欧経験者でした。

 寺島は、薩摩藩出水(いずみ)郷士の次男に生まれ、父の実兄で鹿児島藩医師の松木宗保(そうほ)の養子となり、藩校造士館に学びます。14歳で家督を継ぐと江戸に出て、戸塚静海(せいかい)、伊東玄朴(げんぼく)、川本幸民(こうみん)らに蘭学を学び、幕府蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝を経て、帰郷後、薩摩藩主・斉彬の侍医となりました。

寺島宗則(1832~1893)

 1855年(安政2)には、斉彬の命により、後に「化学の父」と呼ばれる川本幸民と共に電信機を考案し、1857年(安政4)には電信機の実用実験を行っています。このような開明的な人材と出会うことで、寺島は維新後の「父」なる事業への歩みを始めました。

 1861年(文久元)、幕府第一回遣欧使節(文久遣欧使節)に随員として加わった寺島は、福沢諭吉ら総勢38名の団員と共にイギリス・フランス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルを歴訪し、西洋の近代文明をつぶさに見聞しました。この経験と英語・フランス語・オランダ語の三カ国語を操る語学力に加え、医師としても一流であれば、薩摩藩が留学生を派遣する局面で、人選に当たって真っ先に寺島がクローズアップされたのは当然といえるでしょう。

 寺島は、イギリスに到着すると、外務大臣に雄藩連合政権樹立の構想を伝え、対英外交の先駆け的な役割を果たします。維新後は、新政府参与兼外国事務掛、外国事務局判事、外国官判事などを歴任し、外交の第一線で西洋文明の導入に尽力しました。1869年(明治2)に外務省が設置されると、初代外務大輔に就任。征韓論政変(明治六年政変)直後には参議兼外務卿として、千島樺太交換条約(1875年)や日朝修好条規(1876年)に調印しています。3カ国語に通じた寺島は、通訳抜きで条約改正交渉に臨み、条約の発効には至りませんでしたが、近代外交の基盤をつくりました。

 明治新政府で参議や外交などの要職にあった寺島ですが、彼の隠された功績の一つが電信の創設です。薩摩藩時代から外交の最前線にいた寺島は、外国相手の諸問題を解決するには速やかな情報伝達が不可欠であると痛感し、電信創設を建議して許可を得ます。

 1869年(明治2)9月10日、最高責任者として横浜-東京間の電信線架設工事に着手すると、わずか3カ月後の12月25日、路線延長約32キロメートル、電柱593本の工事が完工しました。寺島はこの工事に絶対的な自信を持っていました。14年前から斉彬や川本とかかわるなかで、電信がどういうものかを理解していたからです。

 1859年(安政6)の開港以来、文明開化の先端をいく横浜の地に、西洋文明の象徴ともいうべき電信業務が開始されました。こうして日本の電信事業の幕を開いた寺島は、「日本電気通信の父」「電信の父」と称されます。

 横浜裁判所内の電信局と東京築地運上所(税関)との間の電信架設工事が着手された1869年(明治2)9月19日(新暦での10月23日)は、今日、電信電話記念日とされています。

上野に近代博物館を創設した「日本の博物館の父」

 大久保利通は、維新後、1871年(明治4)から1873年(明治6)にかけて岩倉使節団の副使として欧米を視察し、我彼の差に大きな衝撃を受けます。強大な国家をつくるため、帰国後、大久保は官主導で殖産興業を推し進めます。内国勧業博覧会では大久保みずからが陣頭に立ち、総裁に就任したほどです。

 この内国勧業博覧会と日本初の博物館の創設を通じて殖産興業に尽力したのが、町田久成と田中芳男(よしお・1838~1916)です。

 町田は、薩摩国日置郡(現鹿児島県鹿児島市)の石谷城城主・町田久長の長男に生まれ、19歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学びます。帰藩後は26歳の若さで大目付に昇進し、藩の洋学教育機関・開成所の初代学頭となりました。

 その後、薩摩藩遣英使節団の副使として渡英し、二年あまり滞在する間、パリ万国博覧会にも参加しています。帰国後は、太政官博覧会事務局や内務省で、博覧会の開催や博物館の創設に努めます。町田が構想したのは、イギリスの「大英博物館」を手本にして、知識的な古美術と図書を収集して公開する人文系総合博物館です。博物館設置を建言した彼は、内務省(後の農商務省)博物局長として博物館の創設に尽力、1882年(明治15)、上野に日本最初の近代博物館が創設されると、初代「博物館」館長に就任しました。「日本の博物館の父」と呼ばれるゆえんです。

 町田はまた、神仏分離令による廃仏毀釈運動の影響で荒廃した全国の社寺の宝物を調査し、歴史的文化財の保護を太政官に働きかけます。これを受けて、太政官が1871年(明治4)5月23日に布告した「古器旧物保存方」は、日本で最初の文化財保護法といわれています。国家による文化遺産の保護に尽力したことから、町田は「文化財保護の父」とも称されています。彼の博物館構想は、人文系の総合博物館づくりのための資料収集の一環をなすものです。