胡散臭さは、毎年の人事異動でいっそうふくらんでくる。非管理職に対する評価の基準ははっきりしているのに、こと管理職や役職者ともなれば、下から見て、ほとんどブラックボックスに近い。「なんであんな人が昇進するのだろう」と、人事異動のたびに疑問に思う一般社員も少なくない。

人事評価の機能不全

 その不満は、評価を受ける側の専売特許ではない。評価する側も不満を抱えているのが、人事評価のむずかしいところである。

 評価をする上司の側からすれば、「部下の仕事を隅々まで知っているわけではないし、専門領域や能力が自分とはまったく違うのに、やってられないよ」と秘かに思いながら、決められた手続きどおりに、細かで詳しい評価を求められる。

 評価面接では、結果のフィードバックにも時間もかかり、正直うっとうしいと感じることもある。だから、「忙しいのに、どうしてこんな手間のかかることをやらせるのか」という文句の矛先が、人事部に向けられることになる。

 また、処遇との関連もはっきりとはしない。毎年の評価をいかにまじめに行ったとしても、その評価が報酬に与えるインパクトは限られており、賞与に数万円の差が出るのがせいぜいであったりする。評価の意味合いは、社内の名誉のためだけで、成果主義が導入されていながら、評価の結果よりも、残業代のほうが報酬に与える影響が大きかったりする。だから、人事評価を一種の恒例行事ととらえ、真剣に取り組まなくっている。

 いろいろと悲観的なことを並べ立ててきたが、これが評価の現実だろう。人材の評価を行うことはむずかしいものだ。俗な言い方をすれば、「評価などしたくない人が、評価を受けたくない人に対して行っているのが、人事評価なのである」。それでも評価はなくならない。

 多くの企業において、評価制度はけっしていい加減に作られているわけではない。しかし、「人事評価の機能不全」と呼べるような現象が起きている。評価のための制度があまりに固定化し、慣例化してしまったがゆえに、人事評価が、「評価のための評価」になってしまい、機能不全に陥っているのだ。

 だから、「人事評価を捨てよ」(Abolishing performance appraisal, 2000)という過激な指摘も、トム・コーエンスとメリー・ジェンキンスによってなされている。成果主義への期待が裏切られた後には、人事評価への悲観論が渦巻いている。それがビジネス界だ。