人類学者の作法を学ぶ

 人間中心イノベーションで観察やインタビューをする場合、こういった思考のバイアスを回避するために、日常的に使われる意思決定のアプローチを意識的に退けなければなりません。フッサールはエポケーという言葉を使って、あらゆる理論を「カッコ」に入れ、直感を使って事象を把握し、常に事象そのものに立ち返って直感との照合を繰り返すことを提唱しました。ここでは現象学の考え方をベースに人類学者が実践している作法をいくつかご紹介しましょう。

●没頭する
従来のアプローチでは、調査者の主観を持ち込むのはよくないとされます。しかし、誰かを好きになることではじめてその人のことを深く理解できるように、顧客に共感することで顧客の考えや気持ちを感じることができるようになります。顧客の視点で現実を理解するには、現場を外側から客観的に眺めるのではなく、現場の内側に入り込み、自らの五感を総動員して顧客の世界に浸ることが基本になります。

●先入観を排除する
はじめて旅行する場所で、何を見ても新鮮に感じることがあります。現場をはじめて旅行する場所のように体験することで、世界をこれまでとは違う角度から捉えることが可能になります。そのために、あらゆる先入観を排除する必要があります。偏見やタブー、通念、迷信といった非合理的な考え方、チームが抱いている暗黙の期待や前提。さらに現在の世界を規定している常識やルール、規範、伝統、価値観、原則、評価基準、習慣、理論も、ここでは先入観と同様に扱います。

●判断を留保する
日常生活は判断の連続です。わたしたちはすぐに判断することで危険を回避し、日常生活をスムーズにしていますが、世界をさまざまな角度から捉えるためには、意図的に判断を先延ばしにする必要があります。人間は本能的に「見慣れないもの」を「見慣れないもの」のまま保持することに苦痛を感じます。現場に入り込むと、必ず想像を超える現実に遭遇します。現場で混乱し、苦痛を感じるようであれば、むしろプロセスがうまくいっているシグナルだと考えていいでしょう。

●忠実に記録する
人間は、無意識のうちに記憶を消したり、記憶を書き換えたりすることで、自分に都合のいい現実をつくりあげています。記憶に頼るということは、このようなバイアスのかかった情報を使うということを意味します。バイアスを回避しながら情報を収集する最良の方法は、判断が起こる前に記録することです。わたしたちは、常に歪曲、単純化、消去といったフィルターを使って情報を解釈しています。こういったフィルターを通る前に、五感で感じたそのままの情報を記録します。

観察のフレームワークを活用する

 ここからは、具体的に観察の方法をご紹介しましょう。人間中心イノベーションでは、現場のコンテクストに沿って観察することに重点をおきます。ところが、実際に観察しようとすると、多くの人が「観察するものが多すぎる」あるいは逆に「観察すべきるものが何も見つからない」といった状況に陥ります。こういった状況を救ってくれるのが観察のフレームワークです。

 イリノイ工科大学デザイン大学院のホイットニー学部長とクマー教授が考案したPOEMSなど、いくつかのフレームワークがあります。POEMSはPeople(人々)、Objects(モノ)、Environments(環境)、Messages(メッセージ)、Services(サービス)の略で、それぞれの単語が観察すべき項目になります。使い方は実に簡単で、フレームワークの項目に沿って気になったデータをどんどん収集していきます。フレームワークを使うことで、観察の未経験者でも網羅的にデータを収集することが可能になります。

 フレームワークを使って観察するうえでポイントが2つあります。ひとつは、常に顧客の本当のゴールは何かを自問しながら観察すること。もうひとつは、お互いの要素がどのような影響を与えているのかを意識しながら観察することです。物事の意味があらかじめ確定してしまっていると考えるのではなく、相互作用の過程で意味が生み出されていくと考えます。観察のフレームワークを使うときは、下の表のような問いを投げかけながら観察するといいでしょう。