「大正デモクラシー」の理論的指導者、吉野作造

 労働組合運動は、鉄工組合の財政悪化などで次第に衰退し、1900年(明治33)に治安警察法が制定されストライキが違法行為と定められると弾圧を受け、労働組合期成会は解散に追い込まれます。厳しい状況のなか、片山と共に資本の公有、軍備全廃、普通選挙実施、貴族院廃止などの主張を掲げた日本最初の社会主義政党「社会民主党」を結成したのが、キリスト教的人道主義者の安部磯雄(いそお・1865~1949)です。

安部磯雄(1865~1949)

 片山と安部は、日露戦争真っ最中の1904年(明治37)には、オランダのアムステルダムで行われた第二インターナショナル第6回大会に日本代表として出席し、壇上でロシア代表と日露戦争反対の握手をしたことで国際的に注目され、共に「日本社会主義の父」と称されました。ちなみに安部は、早稲田大学で教鞭を執り、野球部を創設して早慶戦の端緒を開いたことから、「学生野球の父」という称号も与えられています。

 片山と安部が、日本の労働組合運動の指導者として「日本社会主義の父」と呼ばれたのに対し、「日本社会主義運動の父」と称されたのが、堺利彦(1870~1933)です。

 豊前(ぶぜん)国仲津郡(現福岡県京都郡みやこ町)出身の堺は、『萬朝報(よろずちょうほう)』の記者として社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社会正義を求めて1901年(明治34)に萬朝報社主・黒岩涙香(るいこう)、内村鑑三、幸徳秋水らと「理想団」を結成します。日露戦争の折、社会主義の立場から非戦論を主張しますが、『萬朝報』が主戦論に転換したため、堺は幸徳と共に退社して平民社を創立。週刊『平民新聞』を発刊して反戦運動を展開します。以来、明治、大正、昭和にわたり、社会主義運動の発展に力を注いだ堺は、マルクス思想をいち早く日本に紹介してことで知られています。

 その晩年に、無産政党運動で行動を共にした鈴木茂三郎(もさぶろう、後に日本社会党委員長)は、次のように堺を評しています。

「堺利彦は、日本における社会主義運動の父である。なかには片山潜や安部磯雄とならべようとする人もあるであろうが、人の社会における『父』が一人であるように、社会主義運動の日本における『父』は一人の堺利彦であろう」(『中央公論』昭和40年6月号)

 日露戦争後、大正時代末年までの間、政治・社会・外交・文化の各方面で、明治憲法体制に対抗する自由獲得運動が勢いを増します。いわゆる「大正デモクラシー」です。具体的には、普通選挙制度や言論・集会・結社の自由を求める運動、困窮した国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面では男女平等、部落差別解放運動、団結権・ストライキ権などの獲得運動、また自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動など、さまざまな方面からの運動が展開されました。

 その理論的指導者として知られるのが、「民本主義」を唱えた政治学者、吉野作造(1878~1933)です。

吉野作造(1878~1933)

 宮城県志田郡大柿村(現宮城県大崎市古川)に生まれ、第二高等学校(現東北大学)を経て東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業した吉野は、『中央公論』にキリスト教ヒューマニズムの立場から政治論文を発表し、そのなかで普通選挙の実施や貴族院の改革を伴う「民本主義」を唱えます。

「民本主義」とは、Democracyの訳語で、国民全体の幸福を中心に考える政治、つまり、民衆を政治の根本に置くことです。天皇主権の明治憲法下で、主権在民(民主主義)を主張することはできませんが、吉野は「Democracyが世界の大勢である」と論じ、これを最大限追求するため、字義を整理・展開して「民本主義」という訳語を使ったのです。

 普通選挙のうえに成立する政党内閣制を主張し、大正デモクラシーの機運を盛り上げた吉野は「日本民主主義の父」と称されています。