世論を揺り動かした正造の決死の行動

 その二カ月後、正造は、足尾銅山鉱毒問題を解決するために数カ月前から準備してきた秘策を実行に移しました。当時、死刑を免れないといわれていた、明治天皇への直訴という手段に訴えたのです。もとより死を覚悟してのことでしょう。幸徳秋水(こうとくしゅうすい)執筆による直訴状を手にした正造は、第一六回議会開院式を終えて皇居に帰る途中の明治天皇が乗る馬車に近づき、取り押さえられます。1901年(明治34)12月10日午前11時20分、現在の東京都千代田区霞ヶ関一丁目の西幸門前交差点がその舞台でした。

田中正造(1841~1913)

 直訴は失敗したものの、新聞各紙が大々的に報道したことで、事件と直訴状の内容は広く知れ渡りました。足尾銅山鉱毒問題解決のために一気に世論を揺り動かすという、正造の目論見は的中したのです。

 世論を無視できなくなった政府は、翌年、鉱毒調査委員会を設置し、谷中村(現栃木県栃木市)に貯水池を設けて渡良瀬川の治水を図るという計画を立てます。それは、鉱毒問題の根本的解決には程遠いものでした。直訴による死刑を免れ、足尾銅山停止に向けてさらなる闘志を燃やす正造は、悲痛な思いで谷中村に住み、追いつめられた村を救うため、農民と共に鉱業停止と谷中村復活に取り組むなか、1913年(大正2)9月4日に73年の生涯を閉じました。

 結局、谷中村は廃村に追い込まれ、その跡地は渡良瀬遊水地に姿を変えました。足尾銅山鉱毒事件で、銅山を運営していた古河鉱業が加害の事実を正式に認め調停が成立したのは、正造の死から61年後のことでした。

 急激な近代化政策の一方で、大きな犠牲を払った一連の事件は、近代日本における公害問題の原点といわれます。正造の生家跡のある栃木県佐野市周辺の渡良瀬川流域には、記念館・博物館・資料館、記念碑、墓所など正造を偲ぶことができる場所が数多く存在しますが、壽徳寺(じゅとくじ・栃木県足利市野田町)にある正造翁顕徳碑には、「環境汚染公害対策国際運動之祖、渡良瀬川鉱毒災害民衆運動之父」と刻まれています。みずからの利益を顧みず、生涯不当な権力と闘い続け、近代日本の公害問題に挑んだ生涯でした。