毛織物の父――井上省三と片岡春吉

 明治政府は、外国産の羊毛製品の輸入を阻止する一方で、洋服の需要を増加させるため日本初の毛織物工場を設立します。1879年(明治12)に開業した千住製絨所(東京都荒川区)です。初代所長の井上省三(せいぞう・1845~1886)は、技術の導入や工場の運営を一手にこなし、それまで輸入に頼っていた洋服など羊毛製品の国産化を実現しました。

 長州藩出身の井上は、山口兵学校で蘭学を学び、木戸孝允に従って上京しドイツ語を習得します。その後、ドイツ・ザガンの毛織物工場で職工として働きながら技術を習得し、四年後に帰国して内務省に出仕します。官営千住製絨所の建設が決まると再び渡独、後の日本の繊維工業の発展に先鞭をつけた井上は「日本毛織物工業の父」と称されています。

 千住製絨所は操業後、技術を一般公開します。これを契機に、日本最初の民間毛織物会社・東京モスリン紡織(現大東紡織)、日本毛織などが設立されました。

片岡春吉(1872~1923)

 東京モリスン紡織で技術を習得した片岡春吉(1872~1923)は、1898年(明治31)、愛知県津島に片岡毛織工場を設立します。しかし、モスリン製造に失敗し、セル(梳毛糸・そうもうし)を使った和服用の織物)製織の研究を始めます。片岡のセル製織は品評会で高い評価を得るようになり、1903年(明治36)の内国勧業博覧会で脚光を浴びました。

 その後、セル製織は日露戦争の軍用服地となり生産量を増やします。片岡のセル製織も工場機械の近代化によって大量生産を図り、輸出されるようになりました。片岡は製造技術を公開し、地域の人々を指導・援助して愛知県の毛織物生産高を日本一へと導いたことから、郷土の人々から「毛織物の父」と呼ばれました。

近代足利織物の父――近藤徳太郎

 古くから織物の町・染物の町として知られ、『徒然草』でも取り上げられる足利(栃木県)。その特産物である足利織物の近代化、技術向上に努めた近藤徳太郎(1856~1920) は、明治時代の織物技術の第一人者です。

 京都生まれの近藤は、内務省勧農局東京試験場で養蚕、製糸、撚糸を研究した後、1877年(明治10)、フランスのリヨン織物学校に留学します。留学生のなかには、後にカーキ色の発明で名を馳せた稲畑勝太郎もいました。

 絹織物の近代的技術を習得して帰国した近藤は、京都府技師、京都織物会社、川嶋織場(現川島織物セルコン)などを経て、1895年(明治28)、栃木県立工業学校(現栃木県立足利工業高校)の初代校長に招かれます。

 当時、足利織物は、輸出用の生産が盛んに行われていましたが、旧来の方法では品質改良に限界があり、新技術の開発が急務でした。足利織物業者たちは、新技術を習得するため足利織物講習所を創設し、これを前身とする同校で、当時の日本で「織り・染め・撚り・意匠」に関する最先端技術を擁する近藤の指導を仰いだのです。

 以後22年をかけて足利織物の技術は著しく向上し、足利織物と共に近藤の名は全国に知れ渡ります。足利地域の産業界に与えた影響の大きさや、いまなお脈々と受け継がれる工業学校での人材育成への尽力によって、近藤は「近代足利織物の父」と称されています。