日本近代紡績業の父――山辺丈夫

 製糸業が明治日本の主要輸出産業になりえたのは、原料である蚕、繭、生産器械をすべて国産で賄えたためです。「男軍人、女は工女、糸を引くのも国のため」と唄われたように、政府は内務卿・大久保利通の下で殖産興業政策を推し進め、これによって富国強兵を堅持したのです。

 繭を生糸に加工する製糸に対し、紡績は、綿花や羊の毛などの短い原料をつなぎ合わせて撚(よ)りをかけ、綿糸や毛糸をつくります。江戸時代には畿内や東海地域の基幹産業として綿花栽培と手織りの紡績が発展しますが、開国後はイギリスからの輸入品によって日本の紡績業は圧迫されます。そこで、大きな役割を果たしたのが渋沢栄一です。すでに大蔵省を辞し、第一国立銀行を設立して財界の重鎮となっていた渋沢は、民間資本によって国際競争力のある紡績会社を創設するのです。

 結論から先にいうと、日清戦争(1894~1895)後、綿糸の生産量は急増し、1897年(明治30)には輸出量が輸入量を上回ります。その先駆けとなったのが、1883年(明治16)の大阪紡績(現東洋紡績)の開業でした。

 ピーター・ドラッカーは日本における明治維新の変革に着目し、「大阪に紡績工場をつくったときにも、そこには、近代的な蒸気機関を稼動させたり、商品を売ったり、デザインしたりすることのできる人びとが必要でした。そういう人材はどこからやって来たのでしょうか。……大阪の紡績工場は、大成功をおさめました。これは、ひとつの奇跡であり、私の知る限り誰にも説明のつかない明治のできごとのひとつです」と述べています(『NHKスペシャル 明治1―変革を導いた人間力』NHK出版)。

 なぜ渋沢は、大阪紡績を成功に導くことできたのでしょう。ドラッカーがいうように、どうやって経営者を探し当てたのでしょうか。

 実は、ロンドン大学で経済学を学んでいた28歳の青年に紡績技術の習得を依頼し、驚いたことに、面識のないその青年に研究費1500円を送金したのです。当時の1500円といえば、銀行頭取や東京商法会議所会頭に就く渋沢でも、「清水の舞台から飛び降りたように思われた」と語るほどの大金でした。

 大阪紡績の経営者を探す渋沢に、この青年を紹介したのは第一国立銀行の行員津田束(つかね)でした。青年の名は、山辺丈夫(やまのべたけお・1851~1920)。津田と同じ津和野藩出身です。

山辺丈夫(1851~1920)

 渋沢から依頼を受けた山辺は、ロンドン大学を辞め、紡績工場で一職工として働きながら、紡績技術から製品の販売方法に至るまで習得して帰国します。そして、イギリス製の最新紡績機械を輸入し、蒸気機関を採用した動力、電灯を利用した昼夜二交代制のフル操業などで成果を上げ、大規模経営による日本初の紡績会社を成功させるのです。

 山辺と、彼を見出した渋沢によって、大阪紡績は近代工場に飛躍し、これに続く紡績工場が全国各地に建設されます。こうして日本製の綿糸は主要輸出品目へと成長し、世界市場に進出していくのです。山辺が「日本近代紡績業の父」と呼ばれるゆえんです。

 そして、渋沢が「近代日本資本主義の父」と呼ばれた最大の理由は、山辺を発掘し育てたように、意欲ある有能な人材の後ろ盾になって500を超える会社の創設にかかわったことにあるのです。