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「良い」戦略とは何か:ダブル・スタンダードのはざまで |
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評者: 岡田正大 慶應義塾大学大学院 経営管理研究科 助教授 |
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今回紹介の書籍 |
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日米欧の企業経営 |
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吉森 賢=著 (放送大学教育振興会) |
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学問と「世間」 |
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阿部謹也=著 (岩波新書) |
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日本型コーポレートガバナンス |
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伊丹敬之=著 (日本経済新聞社) |
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| 戦略を評価する最適の基準は何か |
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経営者は何をもってその戦略を「よい」と判断すべきか。これは、企業経営者が確信を持って拠りどころにできる経営上の価値評価基準を持っているかどうか、という問いそのものである。
戦略の評価基準は企業統治(コーポレート・ガバナンス)の概念と一体だ。両者とも「だれのため、何のために、どのような価値を最大化するか」という「企業観」を反映する点で同根である。
たしかに戦略はその純現在価値を見ればよく、「だれのために」という議論は不要という考えもあろう。だが、キャッシュを内部留保でため込むのか、増配するのか、給与を引き上げるのか、価格を引き下げて顧客へ還元するのか、研究開発に投資するのか、あるいは地域コミュニティへ貢献するのかなど、その配分は各企業の企業観を反映するものであり、それが次の戦略へ向けた資源を形成する。となれば、やはり最終的には、「だれ(何)にとってどのような価値(無形資産も含む)を最大化できたのか」までを含んで評価すべきと考える。
戦略の評価基準には実にさまざまなものが想定可能だろう。企業ミッションへの貢献度、顧客満足度、株主資本価値、資源蓄積性、組織の継続性、従業員満足度、取引先満足度などだ。ドラッカーが指摘する年金資本主義のように、株主利益の最大化が基金の運用利回り向上を経て従業員利益につながるなど、循環する因果で利害が整合する場合もある。だが、利害が相反する場合(株主利益増大と工場閉鎖による人員整理のジレンマなど)や、資源配分上優先順位が必要なら、戦略策定者はやはり明確な評価基準を持つべきだ。
一九九〇年代末、評者がアメリカでの経営学博士課程を修了して帰国した時、企業活動のよし悪しを株主資本価値に帰結させることは当然と考えるようになっていた。資本市場が完全に効率的ではなくとも、先に述べた多様な評価基準を反映したマーケットでのパフォーマンスこそが企業横断的に公平かつ比較可能な基準であり、市場価値ベースの指標以上に妥当性の高い基準は現実に見当たらないと納得していた。基本的に現在もそう信じている。
そうした「べき論」はともかくも、日本では多くの上場企業が英米型ガバナンス構造における評価基準を本音の部分で疑問視し、それとは異なる価値に基づいて経営されていることを帰国後改めて認識した。これは評者にとって少なからずカルチャーショックであった。
研究論文では、「戦略の評価基準を○△とする」と仮定してしまえば事足りるが、現実に日本企業の実務家と対話をしていると、「べき論」をかざすだけでは議論が空転する場面に多々遭遇した。こうして隘路にはまり込んだような思いにとらわれた時期がしばらく続いた。
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| 戦略の根幹にある「企業概念」 |
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そんな折、日米対立の二元論に陥らず、バランスの取れた世界的視点から企業概念(企業はだれの利益を最大化すべきか)を俯瞰するうえで大いに役立ったのが『日米欧の企業経営』である。著者である吉森賢教授の放送大学講座を偶然目にしてテレビに釘づけとなり、そのテキストをさっそく入手した。そして本書で紹介されている研究結果は私の体験を裏づけるものだった。
著者によるある研究では、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、日本の五カ国の経営者と管理者に対して、「資本主義下においては企業の所有者は株主である。したがって株主の利益が最優先されるべきだ」という命題をまず示す。この命題を肯定する比率は、アメリカ七六%、イギリス七一%、フランス二二%、ドイツ一七%、日本二・九%という結果であった。
次に示された命題は、行動レベルの究極の選択である。経営者が配当を減らすか、従業員の一部を解雇するかの選択を迫られた場合、「従業員の一部を解雇してでも配当を維持する」と答えた比率は、アメリカ八九%、イギリス八九%、フランス四一%、ドイツ四〇%、日本三%だったという。
九〇年代前半の調査とはいえ、各国間、特に日本とアメリカ、イギリスの間にここまでの違いが存在するとは思わなかった。しかも第一の命題の結果で顕著なように、フランス、ドイツの経営者の企業観は意外にも日本に相当近いことを再認識させられた。
この点について著者は、日本においては労働市場がアメリカほど発達しておらず、フランス、ドイツの企業概念は法的に制度化されていて、共にその改変には大きな困難を伴うと言う。また一国における企業概念は、その国の長い歴史・経済・社会・文化的要因により形成されていて、一朝一夕に変更できるものではない。
これを踏まえ、「企業はだれの利益を最大化すべきか」という問いに対して著者は、「企業概念には一長一短があり、特定の国の企業概念が唯一絶対的基準とはなり得ない」とする。そして、日本の経営者は一時的な経営環境のよし悪しに惑わされず、新たな経営環境に照らして捨てるべきものは捨て、残すべきものは残し、取り入れるべきものは新たに導入して「角を矯めて牛を殺す」過ちを犯してはならないと警鐘を鳴らす。
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| 日米欧の企業経営 |
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吉森 賢=著 放送大学教育振興会 |
2001年発行 定価 3,360円 (税込) |
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| 企業経営・戦略研究におけるダブル・スタンダード |
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こうした比較論的視点によって、企業概念を客観的に俯瞰することはできる。そのうえで是々非々の観点から自社・自国の企業観を修正せよ、というメッセージも理解できる。
だが依然として評者は、「べき論」としての「英米型価値基準」(株主資本価値アプローチ)と「日本の現実的価値基準」(さまざまなバージョンのステークホルダー・アプローチ)の関係が、日本企業にとっての「新たな標準」と「修正・打倒されるべき因習」という単純な対抗関係ではないように感じられた。つまり、どうもお互いがそしらぬ振りをしたまま存在し続ける気がしてならなかった。
このような思いを巡らしている時に遭遇したのが『学問と「世間」』だった。著者はドイツ・ヨーロッパ中世史分野の重鎮である。著者は本書において、日本独自の伝統的生活世界としての「世間」という概念に着目した。明治以降、欧米から科学的価値基準が導入されて以来、日本には近代的システムと歴史的・伝統的システムの双方が存在し続けていると指摘するのだ。
これを受けて、評者は先述の「べき論」としての英米型価値基準と現実の日本的価値基準の関係が、本書で言うような並存状態、すなわち「ダブル・スタンダード」に大変近いと感じた。
著者によれば、日本的生活空間としての「世間」と近代システムの下での「社会」は明らかに異質のものである。一般に「社会」はそれを構成する人々によって変革が可能とされるが、日本ではそれと同時に「何も変わりはしない」という諦観が人々を支配する。著者はその理由を、歴史的・伝統的システムの下、日本では変えられないものとしての「世間」が支配的だからだという。
つまり、外部から移入された制度が「世間」を飲み込むような変革は起こりようがなく、もし起こるとすれば、「大化の改新と明治維新、そして第二次世界大戦の敗北」と同等のマグニチュードを持つ「外圧から始まった改革」が必要になるという。
現在、「外圧」と思われるものといえば、資本市場のグローバル化を背景とした株主資本主義の立場から、カルパースのような年金基金やさまざまなプライベート・エクイティをはじめとする機関投資家が思い浮かぶ。しかし、それは日本の伝統的「世間」を切り崩すほど大きな力を持ちうる「外圧」とは思われない。
企業社会のことを考えているうちに、実はダブル・スタンダードは企業社会に限らず、日本の戦略研究の世界でも同じではないかと思い至った。
著者の分析によれば、明治以降、社会科学の研究者たちは歴史的・伝統的システムとしての「世間」にいながら、ヨーロッパ伝来の近代的システムのなかに位置づけられる学問に従事してきており、まさにダブル・スタンダードで生きていた。そうした相容れない両方の世界を生きる悩みもあったはずであるが、「欧米に対する憧れ」が強いがゆえに、「ダブル・スタンダード」をほとんど意識することなく、むしろ自分を欧米と一体化させたつもりにさえなっていたというのだ。
著者のこの分析は、時代の違いこそあれ、一方では英米型の戦略評価基準を是認しつつも、それを否定する日本の現代社会に生きている自分自身のことを指摘されているような気がした。
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| ダブル・スタンダードを受容し その融合を模索する |
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この時頭に浮かんだのが『日本型コーポレートガバナンス』である。同書の序文によれば、「アメリカ帰りの若い学者」だった伊丹敬之教授は、その後日本の現実に目を開かれ、日本的経営を原理的なレベルにさかのぼって考えようと試みた。その理論的バックボーンである「人本主義」「従業員主権」といった概念は、帰国後に遭遇した社会主義の崩壊などを通じてさらに昇華されていったという。二十有余年にわたる独自の思索がもたらした一つの果実が本書だ、と述べられている。
著者は、まさに先に述べた日本的経営におけるダブル・スタンダードを超克することに対し、真正面から取り組んだのではないかと思う。現在の日本的コーポレート・ガバナンスの本質を「建て前は株主主権で、本音は従業員主権」と解釈したうえで、「従業員主権の原理を持ちながらそれをはっきりとはさせてこなかったことが、利益至上主義の暴走を生んでいる」という分析は、ダブル・スタンダードの存在と、著者の認識に基づくその一つの帰結を示している。
ところで、日本の企業社会には、戦略の評価、ひいては企業パフォーマンスの評価におけるダブル・スタンダードをめぐって、四タイプの人間がいるように思う。
タイプIは、日本の歴史的伝統的企業空間(世間)で生まれ育ち、生き抜いてきた結果、英米型の価値基準に頭から拒否反応を示すグループだ。
タイプIIは、伝統的「世間」のなかで生きてきたが、資本市場に直面する業務経験や駐在、転職、留学等を経て英米型価値基準を体得し、そのままその価値を維持し、旧来の「世間」とは接触せず、日本を外から冷静に見つめるだけのタイプだ。
そしてタイプIIIは、タイプIIと同様、日本の伝統的企業の「世間」で生き、その後英米型の価値評価基準に「転向」した後、再び日本の「世間」と直接交わり、逆カルチャーショックを受けて「世間」に反発し批判しているグループである。
最後にタイプIVは、タイプIIIのようなカルチャーショックの後、日本の「世間」を黙殺・回避・否定・消去していてはいつまでも現実を改革することはできないと考え、「世間」を前提として受け入れ、両者の融合による企業成果の最大化を模索する。
タイプIとタイプIIIは、互いに反発し合っていつまでも平行線をたどるだろう。ちょうど私が帰国直後に日本企業と接触した時の状態だ。おそらく現在の私は、タイプIIIからIVへと、悩みつつも慎重に移行する努力を行っているのだと自己分析している。これが単なる妥協に終わらず、新たな経営スキームへの昇華につながるかどうか、今後研究者としての真価が問われることになるのだと考えている。
前掲の『学問と「世間」』は、日本の社会科学がみずから明治以降の展開を十分に描きえなかった原因について、まさに歴史的・伝統的なシステムを無視して近代を描こうとしたことにあるとする。戦略研究においてもこの事態は回避しなくてはならない。
また、タイプIとタイプIVは、「世間」の存在を受容する点で一見判別がつきにくいかもしれないが、タイプWはすでに競技トラックを一周余分に回って見かけ上タイプTと同じところへ戻ってきたようなものだろう。
タイプIVの活動をタイプIと錯覚するタイプIIIの人々は、タイプIVは旧来の日本型経営の追認・礼賛であって日本の改革には役立たない、と批評するかもしれない。だがそれは、表層の観察にすぎない。個々人の背後にある価値評価の体系が異なることをメタ認識しないまま、表面上の意見対立に終始すれば、まさしく互いに「バカの壁」状態となってしまうだけだ。
『日本型コーポレートガバナンス』は、タイプIVに当たる思索活動だと思う。著者は本書において、株主と従業員を企業の「主権者」として認識し、従業員主権に基づく日本型企業制度の改革案として、経営者監査委員会やコア従業員信任投票制度などを提案している。主権者二者のうち、従業員への傾斜を強めた改革案である。
私には、「従業員主権」と言い切るだけの強さをもって、新たな日本企業の仕組みを論じるほどの傾斜はない。むしろ株主と企業を対等の経済主体ととらえ、企業内部の個人にも市場にさらされた凛とした緊張感と競争をより強く求める考え方だ。
さらに私の考えを煎じ詰めれば、経済合理性と自律的意思決定を基盤とした企業経営を、いかに「世間」のなかで効果的に遂行できるかということになろう。その点、著者の提案とはいささか考え方が異なるかもしれないが、いずれにせよタイプIVのなかでの方向性の違いと理解している。
評者は、戦略の評価基準について、「企業価値の持続的増大」にいかに貢献できるかが肝要だと考える。この立場は変わらない。そこに「世間」という日本的生活空間をどのように反映していけるかを考えることが、これからの評者の仕事になると考えている。
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| 学問と「世間」 |
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阿部謹也=著 岩波新書 |
2001年発行 定価 714円 (税込) |
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| 日本型コーポレートガバナンス |
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伊丹敬之=著 日本経済新聞社 |
2000年発行 定価 2,310円 (税込) |
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評者プロフィール |
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評者: 岡田正大 慶應義塾大学大学院 経営管理研究科 助教授 |
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1985年早稲田大学政治経済学部卒業。本田技研工業を経て、93年慶應義塾大学大学院経営学修士課程修了。アーサー D.リトルを経て、99年オハイオ州立大学経営学博士課程修了。慶應義塾大学大学院経営管理研究科専任講師を経て、2002年より現職。専門は企業戦略。訳書に『企業戦略論』(ジェイ B.バーニー著、ダイヤモンド社、2003年)などがある。 |
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