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構造改革という名の「合成の誤謬」 |
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評者: 醍醐 聰 東京大学大学院 経済学研究科 教授 |
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今回紹介の書籍 |
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日本経済の罠 |
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小林慶一郎、加藤創太=著 (日本経済新聞社) |
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誤解だらけの構造改革 |
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小野善康=著 (日本経済新聞社) |
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不安社会を生きる |
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内橋克人=著 (文藝春秋) |
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| 「第三の道」は示されたか |
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最近刊行が相次いでいる経済再生論のなかから、今日の我が国を席巻する構造改革論に潜む「合成の誤謬」、すなわち個々には合理的な行動であってもだれもがそれを実行すると不合理な結果をもたらすというジレンマを解明すると同時に、筆者が研究する会計学と、実体経済の関係のあり方を考えさせてくれる著書を取り上げたい。
小林慶一郎と加藤創太による『日本経済の罠』の狙いは、ケインズ的な需要サイド志向の対症療法か、構造改革派の言う供給サイド志向の規制緩和・リストラか、という不毛な二元論から脱却して、日本経済再生のための「第三の道」を指し示す点にある。
著者はケインズ的な需要喚起策に対して、一九九〇年代を通じてかくも大規模な財政支出や金融緩和がなされたにもかかわらず、企業の設備投資も家計の消費支出も上向かず、日本経済が長期不況から脱出できないのはなぜか、という点に十分な答えを示せていないと批判を投げかけている。
他方、構造改革派が主張する供給サイド志向の規制緩和やリストラ策に対しては、供給サイドの改革、効率性の改善がいかにして総需要拡大をもたらすのか、という肝心の経路を何ら論証していない点に批判を投げかける。
そこで著者は、不良債権という構造問題を迅速に解決することが、供給サイドの問題を解決するにとどまらず、総需要の持続的拡大にもつながるメカニズムを論証しようと試みる。
まず、不良債権問題と企業の投資活動をつなぐメカニズムについて、著者は次のように分析する。不良債権の処理が先送りされると、銀行は持ち越された自己の債権の保全を最優先の課題とするため、債務者企業はたとえ収益性のある投資機会があっても、それを実行する資金を確保できず、投資は行われない。著者はこれを「不良債権のぺナルティ」と呼んでいる。
また、不良債権の優先決済が猶予されると、債権者である銀行は債務者企業の生殺与奪権を掌握する。そのため、企業は、取引先がいつ銀行の都合で倒産させられるかわからないという、高いリスクを抱えることになる。その結果、取引先との信頼関係に基づく供給連鎖が分断される「ディスオーガニゼーション」(組織破壊)が起こって、経済全体が萎縮してしまうのだ。
そこで本書は、不良債権を迅速に決済し、債務者企業を不良債権のぺナルティから解放することが、新たな投資を促すうえで不可欠の条件と見ている。さらに、不良債権の最終処理が、債務者企業を取り巻く供給連鎖を再構築するカギを握ると指摘する。そのためには、不良債権を貸借対照表に残したまま、回収不能と見込まれる部分を帳簿上で損失として引き当てる「間接償却」にとどめるのではなく、不良債権を貸借対照表から切り離してオフバランス化する「直接償却」を断行しなければならないと強調する。
本書はこうした直接償却を可能にするための環境整備として、貸付債権を売買する市場の整備、銀行が債権放棄と引き換えに債務者企業の株式を取得することによって債務者企業の経営再建にコミットする仕掛けをつくるデット・エクイティ・スワップの導入などを早急に検討すべきであるという。
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| 日本経済の罠 |
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小林慶一郎、加藤創太=著 日本経済新聞社 |
2001年発行 定価 2,100円 (税込) |
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| 小泉改革は合成の誤謬の固まり |
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『誤解だらけの構造改革』は「合成の誤謬」をキーワードにしながらも、ケインズ派と構造改革派をつなぐ「第三の道」を目指すのではなく、需要重視の立場を鮮明にして構造改革派の主張を徹底的に批判している。本書のエッセンスを私の理解に基づいて要約すると、以下のとおりである。
構造改革派は、効率の悪い部門を縮小すれば、そこで働いていた人々はもっと効率のよい部門に吸収されて日本経済全体の効率性が上がると言う。しかし、この主張が成立するのは好況期であって、余剰労働資源を吸収する成長部門が見当たらない不況期に、すべての企業がそうしたリストラを進めると、最も効率が悪い「失業部門」が肥大化し、景気がますます悪化して需要は縮小する。これではリストラで効率性を上げても物は売れず、結局は個々の企業収益も下がってしまう。
小泉政権は、金融機関が抱えている不良債権を加速処理することによって日本経済を覆う重荷がなくなり、景気回復の条件が切り開かれると言うが、これはまったくの誤解である。不良債権の処理によって変わるのは、不良債権に見合う負債をだれがどれだけ背負うかという分配だけであって、景気回復とは無関係である。不良債権問題の本当の解決法はこうした負債のツケ回しではなく、貸出先に仕事をつくって不良債権を優良債権にすることだ。そうすれば失業者も減り、需要の回復にもつながる。
このような本書の論調の基礎には、現在の日本における不況の本質は「需要型不況」であるとする一貫した見方がある。著者はこの見地から、小泉首相が叫ぶ「米百俵の精神」は供給型不況の時代に当てはまる倹約の精神であって、それを需要型不況の時代に国民に向けて説法するのは勘違いだと切り捨てる。その舌鋒は鋭く、かつ的を射ている。
なぜなら、構造改革派が依拠する新古典派の経済学は完全雇用を自明の前提とした好況期に通用する経済学であって、余剰労働資源を吸収する成長部門が見当たらない不況期に、供給サイドの効率性をいくら追求しても、雇用不安がもたらす需要の収縮によって、「物をつくっても売れない」結果、効率性が収益性につながらない「合成の誤謬」にはまってしまうからである。
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| 高度失業化社会への警鐘 |
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『不安社会を生きる』にも、構造改革の合成の誤謬に対する関心のほどがうかがえる。
それは、「マネー資本主義が世界を被う現代の企業社会では、個々の企業にとっての合理的な利益追求の選択が、逆に人々の生きる社会を新しい貧窮へと追い込む。中国やアジアへの資本進出が国内雇用の空洞化をもたらす、などは現実のほんのわずかな側面を示しているにすぎない」という指摘に見られる。
本書の特色は、構造改革の「合成の誤謬」を単なる経済的文脈だけではなく、国民の生活の深部にまで及ぶ構造改革やリストラの影響を究明している点である。特に注目されるのは、著者の豊富な知見に裏づけられた雇用・労働分野での規制緩和がもたらす深刻な影響に対する警鐘であろう。
企業内に蓄積された採用候補リストから電話一本で呼び出され初めて採用される「オン・コール・ワーカー」、また、直接採用した従業員をただちに派遣会社に移籍させる「THS」(テンポラリー・ヘルプ・サービス)、乗り合いバス業界に対して売り込み攻勢をかけているといわれる「業務一括受託業」(雇用と使用の分離)などはその一例である。
そして、こうした雇用形態の流動化の行き着く先として、「個人は会社と直接交渉で雇用を決めなければならない」ことを明文化し、九一年に成立したニュージーランドの「雇用契約法」を挙げている。
これら「見えない非正規雇用」の広がりや失業予備軍の滞留は、フリーター現象と合わせ、我が国の将来にどのような影を落とすのであろうか。株価や失業率といった「見える景気指標」に気を取られる傍で、「見えない社会病理」が蔓延しつつある。
このように我が国を覆う雇用不安の現実にまで視界を広げ、そこに再生の眼差しを向けるのはだれなのか。経済の再生はこうした労働と人格の尊厳を踏み台にして語られてよいはずがない。この意味で本書は、経済再生論の枠を超えた人間社会再生論の書として読まれるべきであろう。
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| 合成の誤謬を超えて |
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筆者は最近、現在の消費不況の下で小林・加藤両氏が主張するような不良債権の直接償却を徹底的に実施することが、「不良債権の直接償却→債務者企業の破綻、失業の増大→総需要のいっそうの収縮→企業の収益性の悪化→新たな不良債権の発生」という経路で合成の誤謬を生むメカニズムに関心を寄せている。
なぜなら、不良債権の直接償却は、法的整理による場合はもとより、債権放棄、債権売却という方法で進められる場合でも、債務者企業に追加保証やリストラといった厳しいぺナルティが科されることは言うまでもない。そうなると、供給サイドの銀行側で債権の整理が進み、貸借対照表がクリーンになっても、需要サイドの債務者企業の再生の可能性は閉ざされ、多くの従業員が雇用の場を失うことになる。
こうして雇用不安が深刻化すると、多くの国民は現在の可処分所得の減少に加えて将来の雇用と所得への不安から、消費性向を一段と切り下げ、貯蓄に回す行動を強める結果になる。そうなると総需要はいっそう収縮し、購買力が低迷する結果、個々の銀行が不良債権の直接償却に邁進し、企業がリストラに励めば励むほど、企業全体の収益性はかえって悪化するという合成の誤謬が蔓延するのである。
こうした認識から、筆者は不良債権の最終処理を意味する直接償却を断行することが、需要低迷の「構造的要因」を取り除く必要条件であると同時にほぼ十分条件でもあると説く小林・加藤両氏の提言に大いなる疑問を感じざるをえない。
そもそも現状認識からして、破綻先、実質破綻先ならともかく、要管理先、破綻懸念先の債権までをも、銀行が強権的に直接償却(担保財産の強制処分など)することがいかにして可能なのか。それら債務者企業は、銀行からのぺナルティがあるから収益性のある投資を実行しないのではない。総需要が低迷し、収益性のある投資機会が見当たらないから、これだけ金融緩和がなされても資金需要が生まれないのではなかろうか。
小林・加藤両氏はまた、直接償却の遅れが将来への不確実性を蔓延させ、経済取引を萎縮させていると主張する。しかし、実態はどうかというと、都市銀行合計で、九九年度末から二〇〇一年度末までの間に九兆七六〇〇億円の債権償却を行い、うち五一%は直接償却であったが、同じ期間に不良債権は八兆八〇〇〇億円から一七兆四〇〇〇億円へと倍増している。
これは、個別の債権ごとに見れば直接償却が不良債権の最終処理といえても、都市銀行全体で見れば、やみくもな直接償却の実施だけでは不良債権が再生産され、不良債権の残高がかえって増加するという、文字どおりの合成の誤謬が生まれて、しまうことを物語っている。
その経路は、「債務者企業の倒産、失業や不正規労働者の増加→景気悪化→デフレの進行→担保不動産のいっそうの値下がり、需要縮小→企業の収益性の低下、新規の不良債権発生」というものだ。
こうした現実を直視する限り、不良債権のぺナルティ説と直接償却断行論は、日本経済再生の妙薬とは言いがたい。結局、同書で示されたのはケインズ派と構造改革派の対立を超える「第三の道」ではなく、エレガントな専門用語で新装された構造改革派の主張ではなかったかというのが筆者の率直な感想である。
次に、小野氏の主張に関しては、不良債権をどう処理しようとそれは分配の問題であって景気回復には関係ない、という見解が問題になる。
不良債権が未処理だから景気が回復しないのか、景気が回復しないから不良債権が減らないのかという論争が続いている。後者の指摘が当たっていると筆者は考えているが、だからといって小野氏のように、不良債権問題が景気と無関係と言って済むわけではない。「不良債権問題」と言う時、暗黙に直接償却を想定している点ではいずれも共通している。しかし、この共通認識こそが問題なのだ。
一口に不良債権と言っても、担保でカバーされた部分を除いた残額すべての回収がほぼ不可能な実質破綻先、破綻先債権は、直接償却で速やかに最終処理することが求められる。しかし、少なくとも破綻懸念先以上の債権については、債務者企業の再生の可能性を残す間接償却を厳格に実施するのが本来の姿である。また、財務の実態を開示するという会計本来の役割から言って、回収可能性の残っている債権全額を帳簿から切り離す直接償却は、資産の過度な切り捨てといえる。
間接償却に問題があるとすれば、それは恣意的操作であろう。これまでの銀行決算は「体力に応じた償却」の名の下に、業務純益と有価証券の含み益の範囲内に償却をとどめるという裁量が許されてきた。こうした粉飾決算同然の会計慣行から決別して、回収の可能性を適正に決算に反映させた間接償却を厳格に実施する意義を再認識する必要があるのだ。
こうした間接償却を厳格に実施することによって金融機関の財務の実態を透明にしつつ、債務者企業に再生のチャンスを与え、過度な雇用調整を抑制することが可能になる。それによって不良債権の処理が先か、景気回復が先かというジレンマから脱却できると考えられる。この意味で、小野氏の主張とは違って、不良債権処理と景気回復は一体的に論じられるべきである。
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| 誤解だらけの構造改革 |
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小野善康=著 日本経済新聞社 |
2001年発行 定価 1,260円 (税込) |
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| 不安社会を生きる |
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内橋克人=著 文藝春秋 |
2000年発行 定価 1,300円 (税込) |
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評者プロフィール |
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評者: 醍醐 聰 東京大学大学院 経済学研究科 教授 |
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1970年京都大学経済学部卒業、72年同大学大学院経済学研究科修士課程修了、82年同大学大学院経済学研究科博士課程中退(経済学博士)。88年東京大学経済学部助教授、88年同大学教授、96年より現職。専攻は財務会計。著書に『会計学講義』(東京大学出版会)、編著書に『新版 財務会計論ガイダンス』『国際会計基準と日本の企業会計』(共に中央経済社)、『自治体財政の会計学』(新世社)などがある。 |
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