米国で挑戦する。道を拓くにはそれしかなかった

久能祐子(S&R財団共同創業者)×河合江理子(京都大学教授)[前編]

グローバル化が圧倒的な勢いで進むなか、自分が生まれた国や地域にとらわれずに活動することは、もはや珍しいことではない。INSEADのリンダ・ブリム教授は、そうした人材を「グローバル・コスモポリタン」(Global Cosmopolitans)と称した。本連載では、米国、英国、フランス、スイスなどさまざまな国で学び、働いた経験を持つ京都大学の河合江理子教授が、日本発のグローバル・コスモポリタンを紹介する。今回は、米国で製薬会社を立ち上げて新薬の開発・普及に成功し、『フォーブス』誌が選ぶ「米国自力成功女性50名」に日本人で唯一選出され、現在は芸術・科学・社会起業を支援するS&R財団共同創業者なども務める、久能祐子氏に話を聞いた。久能氏との対談は前後編の全2回。

米国で挑戦する。それしか選択肢がなかった

久能祐子(くのう・さちこ)
S&R財団 共同創業者
京都大学大学院工学研究科で工学博士号を取得。ミュンヘン工科大学での研究員生活を経て、1989年にアールテック・ウエノを上野隆司と共同創業。1994年に、緑内障治療薬となる「レスキュラ点眼薬」の商品化に成功。その後は米国へ拠点を移し、スキャンポ・ファーマシューティカルズ(Sucampo Pharmaceuticals)を共同創業し、初代CEOとなる。慢性特発性便秘症治療薬「アミティーザ」の商品化に成功。2012年に革新的ワクチン開発を目指すVLP Therapeuticsを共同創業。会社の経営から離れて、その後、社会起業家としては、S&R財団を設立し、ワシントンDCで社会起業家のための寄宿型のインキュベーションセンターハルシオン(Halcyon)を設立。2019年、京都に日本で最初の社会起業家のための寄宿型のインキュベーションセンターを設立予定。

河合:久能さんは米国で大成功を収めましたが、渡米されたのは40歳を過ぎてからでした。日本でバブルが崩壊して資金調達が難しかったから米国に目を向けたというお話をされていましたが、米国を選ばれたのはなぜですか?

久能:大成功というのは大げさだと思いますが、サイエンスベースで新薬をつくる目的でバイオテックカンパニーを立ち上げて、チームをつくりました。そして新薬の開発に成功し、会社も上場できたことに関しては、非常に幸運だったと思います。

 米国の魅力は、資金調達の機会の豊富さと、マーケットの大きさです。新規医薬品開発の事業は、非常に先行投資の大きなビジネスです。1億ドル、10億ドル単位の話になるため、資金調達は重要な問題でした。また、たとえば日本で新薬開発に成功したとしても、それが日本の市場に占める割合は10%にすぎません。いまは6%に縮小しており、ほとんどの市場は米国にありました。

 資金を集めやすい環境でもあり、より大きなマーケットで勝負できるという観点からも、そのときは米国に行くしかないと思っていました。当時の環境で、Right thing, Right place, Right timing は何かを考えたとき、それしか選択肢がなかったのです。

河合:私は高校を卒業してそのまま米国に留学しましたが、他に選択肢がないというより、自分の人生の選択肢や可能性を広げたいと考えていました。ただ、帰国して日本で働こうと思っても、当時の日本では海外の大学を卒業した女性への就職の門戸が閉ざされていたこともあり、就職のためにMBAを取得しようと、今度はフランスに留学しました。MBAのような専門性を得ることしか、私の選択肢はなかったわけです。

 その後、私がビジネススクールを卒業した1985年はバブルが始まったタイミングで、英語を話せる日本人なら誰でも仕事があるような状態に変わったので、一転して仕事のオファーがたくさんありました。私にとってのRight thing, Right place, Right timingでもあったと思います。

 久能さんの渡米後の成果を考えると、日本で資本調達できなかったことは幸運だったという見方もできますよね。私も日本で仕事が見つからなかったので海外で働く道を選びましたが、結果的には、子どもの頃からの夢であったスイスやパリの国際機関で働けたり、ポーランドで国営企業の民営化に関われたりなど、非常に面白い経験ができました。

久能:そう、その通りです。2012年頃まで自分の人生振り返ることはほとんどありませんでしたが、ピンチはチャンスだったなと心から思いました。目の前に壁があり、そこの扉は閉ざされていると気づいたとき、横に進んでみたら大きなチャンスがあったという経験は山ほどあります。

 もし当時の日本の経済状況がよく資金調達がうまくいき、そのまま日本でやれていたとしたら、私は日本から出なかったと思います。日本のマーケットを中心とした会社をつくっていたでしょう。それが悪いということはなく、それはそれで充実して面白かったかもしれません。誰のキャリアにも正解はないと思います。

サイエンスの世界は結果がすべて

河合江理子(かわい・えりこ)
京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授
東京都生まれ。東京教育大学附属高等学校(現筑波大学附属高等学校)を卒業後、米国のハーバード大学卒業、フランスの欧州経営大学院(INSEAD)でMBA(経営学修士)を取得。マッキンゼーのパリオフィスで経営コンサルタント、ロンドンの投資銀行S.G. Warburg(ウォーバーグ銀行)でファンド・マネジャー、ポーランドで国営企業民営化ファンドの最高投資責任者。1998年より国際公務員としてスイスのBIS(国際決済銀行)、フランスのOECD(経済協力開発機構)で職員年金基金の運用責任者。その後、スイスで起業し、2012年4月より京都大学教授を務める。現在、大和証券グループ本社社外取締役、シミックホールディングス社外監査役、京都造形芸術大学客員教授を兼任。著書に『自分の小さな「鳥カゴ」から飛び立ちなさい』(ダイヤモンド社)がある。

河合:他に選択肢がないからと渡米し、実際に海外で働き始めて、日本の経験が活かされたこと、反対に困難だったことはありますか?

久能:私にとって「海外」を語るのはあまりにも広すぎるので、自分が知っている米国の中でも東海岸、その中でもごく小さいメリーランド州とワシントンD.C.周辺に限定しますが、そこで働くことが大きなプラスになったのは、研究開発がやりやすい環境だったということです。教育水準がとても高く、研究者の方が多い地域でした。加えて、その地域には大きな会社がなく、彼らが動きやすい環境にもあったので、人材確保がやりやすかった。ヒューマン・アセットがとても豊富だったと思います。

 また、新しいことへの挑戦に対してとても寛容なので、「やってみたらいいんじゃない?」と言ってくれる人が非常に多かったのは助かりました。いい意味で放っておいてくれ、「どうなった?」「大変じゃない?」などのお節介はいっさいなく、それは個人的にはやりやすい環境でした。

 ただ、当然アウェイで仕事をするわけですから、言葉の問題だけでなく、ビジネス習慣がわからないなども含めて、最初から本当の意味でのコミュニケーションが取れていたかというと、自分でも100点ではなかったと自覚しています。特に私のように起業した場合、自分はオーナーですから、他人と一緒に何かするというよりは、自分がやりたいことがまずあり、それに対して理解を求める立場だったので、そこには苦労がありました。

河合:私自身は、米国はアウェイだという気持ちが大学を卒業するまで残っていました。米国で彼らと戦っていく自信がないまま、日本に帰国したように思います。その後、INSEADのMBAで世界各国から集まる他の学生の間で揉まれて、また一緒にプロジェクトをする経験を得たことで初めて、海外で仕事をしていけるという自信を持つことができました。久能さんは、アウェイ感を克服するのにどのくらい時間かかりましたか?

久能:米国に行って5年くらい経ったとき、ようやくここでやっていけるなという感触を得られたと思います。最初は社員が1人や2人という状態で時間に余裕があったことは、慣れるにはよかったと思います。アイデアはあってもお金がないので、貧乏暇なしどころか、貧乏暇ばかりです (笑)。2年くらいはそんな状態でしたので、その間、いろいろなコミュニティに参加していました。

 たとえば、ジョージタウン大学のMBAコースが週末だけやっていて、サティフィケイト(卒業証明書)を出すようなコースがあったので2年ほど通いました。そこで授業を受けながら自社のビジネスプランを描き、会社の経営を月曜日からやるという形です。MBAの学位を取るために行ったのではありませんが、目的がはっきりしているときに通っているので、その時間はとても有意義でした。

 さらに、私たちが幸運だったのは、サイエンスベースの仕事をやっていたことです。言葉がわからなかろうと、小さい会社だろうと、そこは結果がすべての世界。女性のCEOであることもハンデにもなりません。

河合:性別や国籍を問わず、結果がすべてという発想は貴重ですよね。日本との比較だけでなく、欧州と比べても、米国はよりいっそうポジティブで、相手の弱点を指摘するというよりも、やる気のある人を応援する文化が醸成されている印象があります。

米国で成功するには、まずポジションを確保することから

河合:米国に限らず、起業家や研究者はもっと積極的に海外に行くべきだという議論があり、実際にそのような人たちも増えています。久能さんは、海外で活躍したい人にどのようなアドバイスを贈りますか?

久能:もちろん、自分が海外で何をしたいのが、はっきりしていれば素晴らしいと思いますが、若いときであれば経験としてまず行ってみること、非日常空間や異文化空間に行くこと自体に意味があると思います。

 私は大学院でドイツに留学していたのですが、そのときはやりたいことがあったわけではありませんでした。でも異文化の中で、自分が最終判断者として生活したことは貴重な体験でした。それは自分の自信にもなりますし、自分では気づいてなかった得意なこと、やりたいことを見出すという意味でも価値があります。

 ただ、仕事として行く、すなわち誰かがお金を出してくれるのではなく、自分がお金をもらう立場で行くときは、何が自分の売りになるかがはっきりしていることが大切です。単に「行ってみたいから行ってみました」では、苦労することも多いでしょう。

 実際、「ここは絶対に勝てる」と思えるポイントがあったほうが楽ですよね。自分が得意な分野を極める。少なくとも、はっきりさせておく。そして、それを主張できるようにしておくと、採用する側も採りやすい。

 一方で、自分が希望する仕事に就けたなら、最初から「これをやりたい、あれをやりたい」と言うのではなく「何でもいいからやります」がいいと思います。米国では半年に1回のペースで昇進することも珍しくありません。そうであれば、とにかくポジションをもらってしまうこと自体に意味がある。そこから何でも引き受けて力を発揮でき、上司や同僚の目に留まって昇進できれば、自分がやりたいことがすぐにできます。

 自分でオプションを決めつけないで、目の前にあるチャンスを掴み取り、とにかくまずやってみる。そして、そこで実績を積む。最初から100点のオプションが欲しい、100点のチャンスが欲しいと待っていたら、あっという間に年を取ってしまいますよ。そこで躊躇している間は一歩も進んでないことになる。それよりも、まず一歩を踏み出すこと。自分が進めそうなところに進んでみるほうが、時間を有意義に使えるのではないでしょうか。

河合:たしかに、米国ではポジションをとってしまうことは大事ですね。私の大学時代のルームメートは心理学の博士号まで取得して就職しましたが、最初の仕事はアシスタントでした。でも、そこからどんどん昇進して、最終的には副社長まで出世しました。欧州で働いていたときは、自分のレベルに見合わない仕事をするなら失業したほうがましという人もよく見かけたので、米国の実力主義と人材流動性の高さは魅力的だと思います。

 後編は12月28日(金)より公開。