マインドフルネスの先にある、サティとは

EIシリーズ創刊記念イベント「マインドフルネス」講演録[後編]

1

EIシリーズ『マインドフルネス』イベント講演録[後編]は、グーグル、フェースブックなど、米国の名だたる企業に坐禅を指導してきた曹洞宗僧侶の藤田一照氏。マインドフルネスの先にある奥深い世界に迫る講演の一部を要約、抜粋してお届けする。(構成/加藤年男、写真/斉藤美春)。(前編はこちら

瞑想は思い出すためのもの

 大学院で心理学を研究していたとき、禅に出会った。それまで科学が世界を解明すると思っていたが、別の考え方をする伝統を発見した。それから禅の勉強を始め、大学院を中退して僧侶になった。

藤田一照(ふじた・いっしょう)
1954年、愛媛県生まれ。灘高等学校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州バレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し、現在も坐禅の研究・指導に当たっている。2010年より2018年まで曹洞宗国際センター所長。スターバックス、フェイスブック、セールスフォース、グーグルなど、米国の大手企業でも坐禅を指導する。著書に『現代坐禅講義』(KADOKAWA)、共著に『アップデートする仏教』(幻冬舎)、『禅の教室』(中央公論新社)、『生きる稽古 死ぬ稽古』(日貿出版社)、『退歩のススメ』(晶文社)、『感じて、ゆるす仏教』(KADOKAWA)、『安泰寺禅僧対談』(佼成出版社)、『仏教サイコロジー』『マインドフルネスの背後にあるもの』(サンガ)などがある。

 西洋の心理学は日常的な心だけを考えるが、仏教はそれとは違うもう一つ心のあり方があると説く。心理学や精神医学で扱う日常的な心は、小さく自分を括った心で、仏教では「小心」と呼ぶ。小心者という意味ではなく、無限の宇宙にポツンと点のように存在している、たくさんのなかの一人として自分を見る小さな心だからである。それに対して大心がある。

 妄心(もうしん)という言い方もある。それは自分で自分をコントロールできていない心のことだ。マインドフルネスではそれを自動操縦状態と呼ぶが、自分の心なのに自分でどうしようもできない心のあり方をしている状態だ。それに対して本当の心が「真心(しんじん)」である。

 仏教での心の在り方は経典や学派によって名前が異なるものの、2つあることは共通している。大心、真心が本来だが、人間は間違えて現実は小心、妄心になっている。

 この仏教の心の二相論は、心が2つあるのではなく、現れ方が2つあるということだ。だから妄心から真心に移行したとき、本来性をもつ真心に帰るという言い方をする。忘れているから思い出すのである。仏陀がそのためにやったことが木の下に坐ることだった。禅宗ではそれを坐禅と呼ぶが、広く言えば瞑想である。

 瞑想は特別な体験や境地をゲットするためのものと思われているが、このように本来持っているものを思い出すためのものなのである。

「惑業苦」の悪循環が人間の性

 パスカルは人間を観察して得た洞察を『パンセ』にまとめた。あらゆる不幸の原因は1つであり、我々は未熟なため自分の部屋で静かにくつろぐ能力がなく、そこからいろんな不幸が派生していると書いている。ジタバタしている心ということで、自我やエゴと言ったりもする。

 道元はそれを吾我(ごが)と呼んだ。吾我の特徴は現実に対して、不平不満やほしいものが足りない、嫌いなものが多すぎると注文をつけることにある。

 要するにいつも現実にバツをつけている。心がこのあり方をしていると、そうならざるを得ないプログラムが人間に植え付けられているからだ。吾我が現れると同時に、現実に注文をつけないといられない「わたし」が、セットとして生まれてしまうのである。

 仏教はそれを解明して逆を行こうとした。仏陀は心がある動き方をする原因を瞑想によって見つけた。それを「如実観察」と呼ぶ。実の如く見る、つまりいま起きていることをありのままに見ることである。

 妄心はいつも不平不満や欲望を通して見ているので、ありのままに見えない。私たちはそれを現実だと思い、マル、バツ、どちらでもない、の3つで評価して行動を起こす。

 マルのときに起こるリアクションが貪りである。もっと、ということで、「貪(とん)」と言う。バツをつけたものは、あらゆる手段を使って自分の現実から取り除こうとする。「䐜(じん)」といって怒りのことだ。マルでもバツでもないものは、あるのに見ないで無視をする。それを愚かさという意味で「痴(ち)」と言う。

 それを合わせたものが「貪䐜痴」で、三毒と呼んでいる。本来の心で生きるにあたって障害になるものという意味だ。のちにこの3つを因数分解してたくさんの煩悩になった。

 このフレームワークのなかで、リアクションはほとんど自動的に起こるようになっている。吾我が立ち上がった結果、その性質から必ずマル、バツ、どちらでもないと評価して、それに応じてリアクションが起きて行動が生まれる。

 その心の動きを如実観察すると少なくとも3つのプロセスがあることがわかる。それを「惑業苦(わくごうく)」と呼んでいる。

「惑」は間違って吾我を立ててしまったということである。ただし、それは仏教的には錯覚に過ぎず、本当はないのにあるかのようにイリュージョンとして立ててしまったことを意味する。

「業」は行動で、惑に基づいて体を動かしてしまう。惑で世界や自分を見ていると、不平不満が出て間違った見方に基づいて行動してしまう。これは認知的なミステイクだが、私たちはミステイクとは思わず、それに基づいてアクションを起こす。アクションを起こすとそれは現実になり、ものを投げつければ割れたりする結果が起こる。行為によって世界をいじってしまったら、いじった世界がそこに立ち上がるわけだ。行為とその影響を「カルマ」と呼ぶ。

「苦」は思い通りにならないことである。思い通りにならないと、また戻って認知的ミステイクを通して見てしまう。そしてそれに基づいて行為を起こし、また思い通りにならないことが起こるという悪循環になる。

 一度このループに入ると、弾みがついてしまいなかなか変えられない。轍と同じで、最初はたまたま通った道も、2度3度となるともうそこしか通れなくなる。

 私たちはこうした「生」を生きさせられている。

 これは仏教的には神様の罰ではなく、すべて「わたし」の責任であり、このパターンは自分で変えることができると説く。

 ただし、人間はいままで行ってきたパターンの逆をいくのは難しい。その難行を実行したのが仏陀で、そのメインストラテジーが瞑想だった。

 私たちは手足や口や頭を一所懸命使って問題を解決しようとするが、それをいったん止めようとするのが瞑想だ。だから坐禅を行うときは脚を自分で組んで移動のために使わない。手も道具を使うのではなく、両手をつないで使えなくする。世界を変えるために言葉を使わないようにするため、口は閉じる。

 人間は知能を進化させて地球に君臨してきたが、その副作用として、惑業苦のトラップに落ち込んでしまう宿命を負った。それを緩和し、逆手にとってさらに進化させるような、壮大なプロジェクトが宗教的な人たちの発想だった。

 トラップに陥ることをキリスト教では原罪と言い、仏教は無明という。キリスト教はイエスに対する信仰でパターンを変えようとするが、仏教は修行によって変えることができるとする。

次のページ  サティの“訳語”となったマインドフルネス»
1
Special Topics PR
今月のDIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー
世界のエグゼクティブが注目する話題の新シリーズEI Emotional Intelligence  知識から感情的知性の時代へ 待望の日本版創刊
定期購読
論文セレクション
DHBR2019年4月号『シニア人材を競争力に変える』発売!
  • facebook
  • Twitter
  • RSS
アクセスランキング

 

スペシャルコンテンツ