医師の治療成果を向上するには、
金銭報酬や行動経済学的アプローチだけでは不十分

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近年、意思決定の環境を変えることで行動改善を間接的に促す、「ナッジ」の手法が注目を浴びている。しかし、医師の行動に関しては、ナッジも、そして金銭的報酬も、決定的な改善要因としては不十分であるという。治療成果の向上につながるカギは何だろうか。

 たび重なる調査結果によれば、米国の患者は推奨される治療を2回に1回しか受けられていない。さらに、患者が受けている治療の約2割が非推奨、または「価値の低い」ものであることがわかっている。

 臨床医の診療向上に向けて、エビデンスベースの診療ガイドラインが広く普及しているにもかかわらず、医師はそれらに従わないことが少なくない。医師の行動を改善し、彼らの治療の質と効率を向上させる、最善の方法は何か――。医療業界のリーダーたちは、この問題を長年考え続けている。

 近年、エビデンスベースの治療を推進する施策として、経済的インセンティブや、行動の「ナッジ」(人間の心理を理解し、行動を間接的に誘導する行動経済学のアプローチ)を利用した取り組みが熱い注目を浴びている。

 しかしながら、医療現場における意思決定はあまりにも複雑であり、そうした施策で着実に改善できるものではない。リーダーは、臨床に立つ医師の行動を変えるには、彼らが働く個々の組織の文化について、より幅広い視点から考える必要があるのだ。

調査データが示唆するもの

 まず、経済的インセンティブについて考えてみよう。

 米国ではP4P(Pay-for-performance)というプログラムが実施されており、医療機関が診療ガイドラインを遵守、あるいは、より高いアウトカム(治療成果)を達成した場合に、ボーナスが支給される(質の悪い治療に対しては罰金が課せられることもある)。「量ではなく価値に応じた診療報酬を」というキャッチフレーズのP4Pは、医師の行動を改善するうえで有望な手段とされてきた。しかしながら、こうした一元的なインセンティブ施策の成果には限界があることも、これまでの証拠からわかっている。

 多くの調査によれば、P4Pは治療プロセスの改善には効果がある(例:心臓発作を起こした患者には必ず、再発予防のためのアスピリン投与を行うなど)。しかし、死亡率をはじめとする患者のアウトカムの向上には効果がないとの結果が出ている(試験偏重の教育が必ずしも優秀な生徒を生み出すわけではないのと同様、よりよい治療プロセスがよりよいアウトカムを保証するものではない、という証拠が示されたわけである)。

 ほとんどのインセンティブは、事態を改善するには額が少なすぎる、という声も一部にはある。しかし、英国の国民保健制度においては、医師の報酬の最大3割がP4Pによって支給されているにもかかわらず、制度が導入された2004年から、患者の健康に顕著な改善は見られていない。

 治療実績を上げるために経済的インセンティブに頼りすぎることは、指標の操作(例:患者の再来院による罰金を減らすために、病状を実際よりも悪く評価するなど)や、想定外の悪しき結果を招くことも少なくない。

 たとえば、心疾患の患者にベータ遮断薬(狭心症や不整脈の治療に使われる薬剤)を処方する医療機関や医師に対し、報酬を支給することは、危険な過剰投薬をしばしば助長する。場合によってはこれが患者にとって最悪の結果を招きかねない。

 また経済的インセンティブは、その意に反して医師の内発的なモチベーションを衰退させたり、気を散らせてパフォーマンスを低下させたりする恐れがある。現場の医師はただでさえ、勤務時間の中で増え続ける義務、両立が難しい要求にあえいでいる。そこにさらなる取り組みを加えられても(たとえ金銭的なメリットがあるにせよ)、快く思わない医師もいるだろう。

 医師の意思決定を改善するもう1つの方法として、研究者と医療リーダーは近年、行動経済学に注目している。これは、個人の環境を少しだけ変えることで、認知バイアスを軽減し、合理的な選択を促すことができるという考え方である。

 たとえば、精巧に設計されたある無作為比較試験では、ウイルス性感染症の治療を目的として抗生剤を処方した医師に、その根拠を同僚の医師に説明するよう義務付けたところ(accountable justification:説明責任を果たすことによる正当化)、抗生剤の不適切な処方が顕著に低下したことが示されている。

 こうした有望な調査結果があるとはいえ、行動経済学的アプローチは、常に成功するわけではない 。スイスで実施された実験では、内科医を無作為に2つのグループに分け、一方のグループの医師のみに、抗生剤の処方に関するフィードバックを個々人に与えた。すると、フィードバックを受けたグループと、受けていないグループとの間に、その後の処方パターンにおける差は見られなかった。

 これらの実験では、行動学的フレームワークが不完全な形で適用されたにすぎない、という声も一部にはある。しかし、フレームワークそのものに限界がある可能性も高いと考えられる。

 経済的・行動学的なフレームワークはたしかに、完全ではなくても、医師のよりよい意思決定とエビデンスベースの医療をある程度は促進できる。しかしながら、医療リーダーと医師は、こうしたフレームワークが万能薬ではないことを理解すべきであり、改革推進に向け他のアプローチも柔軟に受け入れなくてはならない。

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