論文セレクション

みずからの乱気流の人生が、
予測重視の戦略経営論を生み出した

H. イゴール・アンゾフ

『Harvard Business Review』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月1人ずつ、首都大学東京名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2017年6月の注目著者は、「戦略経営の父」と称される、H. イゴール・アンゾフ教授です。

ロシア革命の乱気流に翻弄されたアンゾフ一家

 H. イゴール・アンゾフ(H. Igor Ansoff)は、企業が将来的に直面する事業環境の多様な変化を「乱気流(turbulence)」と呼んだ。そして、乱気流がもたらす経営課題に対する体系的な戦略計画の重要性を唱え、「戦略経営の父」と称された。

 アンゾフは、1918年12月、ロシアのウラジオストクで生を受けた。幼少年時代のアンゾフの体験はまさに、乱気流そのものであった。

 アンゾフが生まれた前年の1917年は、第一次世界大戦が終戦を迎えた年である。ロシアでは10月革命によってボルシェヴィキ主導の政権が誕生し、同年7月には、ロマノフ王朝のニコライ2世とその家族が処刑されている。またウラジオストクには、ロシア革命に対する日本や米国などの干渉軍が、いわゆるシベリア出兵により集結していた。ウラジオストクは、革命から逃れてきた多くの人々で混乱していたが、1922年に干渉軍が撤収すると、ボルシェヴィキ政権の管理下に入った。

 米国大使館に勤務していたアンゾフの父は、米国赤十字社の依頼でウラジオストクに派遣されていたが、1919年に米国大使館は閉鎖され、1924年までモスクワに戻ることができなかった。

 革命後のロシアでは、食料難による飢餓とスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れていた。1933年に米国大使館が再開されたものの、父がふたたび勤務に戻れるまで、アンゾフ一家は清貧な生活を強いられることになる。また、母の実家が工場を所有する資産家ということで、彼らは反革命派と見なされていた。

 アンゾフは、学校でも、また所属するピオネール少年団でも、体制の優等生として振る舞った。米国大使館に勤務している父は、密かに米国への移住計画を立て、米国の市民権を取得する手続きを行いながら、アンゾフに英語の家庭教師をつけた。そして1936年9月、アンゾフ一家は、北海に面したレニングラード(サンクトペテルブルク)の港から、小型輸送船で米国にむけて旅だった。彼らが、大西洋の荒波を受けてニューヨークの港に着いたのは、それから2週間後であった。アンゾフはそのとき、16歳であった。

 アンゾフが17歳を迎えたとき、彼はロシア正教の司祭の紹介で高校に通うことになる。自伝的エッセイによると、高校に通い出した当時、すでに勉強していた英語で授業内容は理解できるはずと確信していたのに、教師や同級性の話していることをまったく理解できないまま、いろいろな教室をうろうろするばかりだった、と述べている[注]

ロッキードで発想した戦略を論文として発表

 アンゾフは高校を1年で卒業し、スティーブン工科大学に入学した。彼は修士課程まで進み、1941年に数学と物理学の修士号を修得した。戦時中の5年間は海軍で勤務し、1946年、ブラウン大学の博士課程に入り、応用数学のPh.D.を授与され、その年の1948年、カリフォルニア州サンタモニカのランド研究所積算部に入所した。

 ランド研究所には8年間所属し、その間、空軍やNATO軍の脆弱性を研究するプロジェクト・リーダーを務めることがあったが、アンゾフがランド研究所で学んだことは、長期的なリスクに対して鋭敏であるべき軍事組織における、先見性や創造力の欠如した「組織の近視眼(organizational myopia)」の現実であった。

 アンゾフは、1956年にランド研究所を退職し、カリフォルニア州バーバンクにあるロッキード・エアークラフトに入社した。当時、多くの航空機製造企業は、戦時中に蓄積した技術を活用した多角化戦略を模索していた(図1参照)。

図1:航空機産業の多角化戦略(1950年代)

 1950年、関連する産業内での水平的、垂直的企業合併を規制したセラー・キーフォース法(クレイトン法第7条修正)が成立し、企業は内部資源を活用した内部成長(Organic growth)が求められていた。ロッキードには多角化を検討する部門があり、アンゾフは、そのスペシャリストとして入社したのである。ロッキードは事業の多角化を進めるために、地上整備機器や航空管制用コンピュータを開発し、その事業化を推進する子会社としてロッキード・エレクトロニクスを設立した。そしてアンゾフは、その計画担当ヴァイスプレジテントに就任した。

『ハーバード・ビジネス・レビュー(Harvard Business Review)』(HBR)誌に掲載されたアンゾフの最初の論文は、“Strategies for Diversification,” HBR, September-October 1957.(邦訳「多角化戦略の本質」DHBR 2008年8月号)である。それは、その後の企業経営論や戦略経営論の原点とも言える論文である。

 同論文では、多角化戦略を定義するために、「事業成長のための製品-市場戦略」(図2)が描かれていたが、それは「アンゾフ・マトリックス」、さらに「成長ベクトル」として名を残すことになる。

図2:アンゾフ・マトリックス(成長ベクトル)

 同論文は、社内向けに書かれた “An Action Program for Diversification” (1956)が基になっていた。さらにアンゾフは、それを学会誌に投稿する目的で、”The purpose of this paper is” で始まる “A Model for Diversification” を執筆すると、1957年5月に『マネジメント・サイエンス(Management Science)』誌に投稿した。

 実は、その論文とHBRに掲載された論文とはほとんど同じ内容であったが、唯一違ったのは、冒頭の『赤の女王』の引用であった。赤の女王は、主人公のキャロルに「ここではね、同じ場所にとどまるだけでも、全力で走らなくちゃいけないのさ。どこかよそへいくつもりなら、せめてその倍の速さで走らないといけないんだよ」と話す。

 それは企業にとって、現在の地位を永続させるためには絶えざる成長が求められ、その地位を上げるにしても倍の努力とスピードが求められるが、既存の製品-市場戦略によって地位を上げた企業は一つもないということであり、多角化戦略の意義を述べたのであった。アンゾフは同論文で、軍事用語である「ミッション」という用語を使って、企業が製品に託した便益を市場として定義して、製品―市場戦略を、「市場浸透戦略」「市場開拓戦略」「製品開発戦略」「多角化戦略」に分類し、多角化戦略が企業の成長に欠くことのできない戦略であることを訴えた。

 なお、『赤の女王』は、ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』をもとにしている。生物学の世界では、1970年代になって「赤の女王仮説」として、種や遺伝子が生き残るためには、周囲の生物が進化して生ずる環境の変化に対応し、進化し続けなければならい、という意味で使われるようになるが、アンゾフはそれよりも20年近く前に唱えたことになる。

 アンゾフは、成長戦略の選択には、売上の長期トレンドをいくつかのタイプ(図3)に分類し、それに合わせて製品-市場戦略の方向性を決めることが重要であるとした。

図3:多様な長期トレンド予測のタイプ

 その方向性については、たとえば航空会社であれば、さまざま方法で旅客と貨物を輸送する事業に拡大させる「先端技術を通じて、よりよい生活のためによりよい輸送を」といったように設定すべきとしている。この例示は、セオドア・レビットの「鉄道会社が衰退したのは、旅客と貨物の需要が減ったのではない。自社の事業を輸送事業と捉えていなかったからだ」を想起させる。詳細は、“Marketing Myopia,” HBR, July-August 2004(邦訳「マーケティング近視眼」2001年11月号)を参照されたい。

 さらにこの論文で注目すべきことは、経営に関する最初の実践書と言われるピーター F. ドラッカーの The Practice of Management, 1954.(邦訳『現代の経営 上・下』ダイヤモンド社、2006年)を参考文献として挙げている点である。ドラッカーは、第一に市場の潜在的な趨勢、第二に経済の発展、流行や好みの変化、競争の変動による市場の変化など、経営者は長期的な市場や技術の変化を注視すべきとしている。

さらなる人生の転換を求めて

 アンゾフは、1965年に Corporate Strategy(邦訳『企業戦略論』産能大学出版部、1969年)を上梓した。同書では、企業は、技術、市場、社会などの環境の変化に支配されるので、環境の変化に対する予測が戦略的意思決定の必要性を唱えた。なお、同時期に発表された “The Firm of the Future,” HBR, September 1965.(邦訳「企業の未来」2007年2月号)は、その骨子であり、同論文は1965年度のマッキンゼー賞を受賞している。

 同論文が書かれたとき、アンゾフはすでにロッキード・エレクトロニクスを退職し、ピッツバーグのカーネギ工科大学(1965年にカーネギ・メロン大学と改称)産業管理大学院(現テッパー・スクール・オブ・ビジネス)の所属になっていた。

 アンゾフは、大学へ異動した経緯を次のように語っている。

 1962年の夏、長期休暇を取得してマサチューセッツ州の保養地であるケープコッドに滞在中のことであった。ある朝、ひげを剃っていたときにふと思った。残された人生、長期的に見てこのままでいいのだろうか。企業は早期に退職すべきであり、どこかのビジネススクールの教員になろう。すぐにでも職を探そう、と。

 その意思決定は、ロッキード・エレクトロニクスで計画担当ヴァイスプレジデントとして進めていた、戦略計画の考え方を広く薦めたいという意識と、計画管理の日常的な業務から解放されて、アンゾフ個人の人生にとって新たな「戦略的な業務」に注力したい、という思いでもあった。実際、その年にカーネギ工科大学のビジネススクールで職を得ることが叶うと、講義を担当せずに、すべての時間を『企業戦略論』の執筆に充てることができた。

 同時期には、アルフレッド D. チャンドラーによる Strategy and Structure, 1962(邦訳『組織は戦略に従う』ダイヤモンド社、2004年)が出版されたが、アンゾフにとって、戦略とは、意思決定をするマネジメントの資質、組織の経営資源や組織文化によって決まるのであるから、「戦略は組織に従い」しかも戦略の実効性を高めるためにはシステムとしての戦略プログラミングが必要と考えた。

 その後、アンゾフは、Strategic Management, 1979(邦訳『戦略経営論』産能大学出版部、1980年)、Implanting Strategic Management, 1984(邦訳『戦略経営の実践原理』ダイヤモンド社、1994年)、さらに The New Corporate Strategy, 1988(邦訳『最新・戦略経営』産能大学出版部、1990年)を上梓している。

 ヘンリー・ミンツバーグは、アンゾフを「戦略経営の父」と称したが、同時に、最大の批判者でもあった。“The Fall and Rise of Strategic Planning,” HBR, January-February 1994(邦訳「戦略プランニングと戦略思考は異なる」DHBR、2003年1月号)、さらに著書である The Fall and Rise of Strategic Planning, 1994(邦訳『「戦略計画」創造的破壊の時代』産能大学出版部、1997年)では、非連続的な変化を予測することは事実上不可能であり、戦略プランニングを信奉しすぎていないか、と批判した。

 アンゾフは、カーネギ・メロン大学に留まらず、テネシー州ナッシュビルのバンダービルト大学(1968-1973)、ベルギーのEIAS(1973-1975、1976-1983)、スウェーデン・スクール・オブ・エコノミクス(1973-1977)、カリフォルニア州サンジエゴのUS国際大学(現アライアント国際大学)(1983-2001)と、決してひとところに収まる人生を選択しなかった。

 それは、彼がロシアで過ごした幼少年時代、そして米国での新たな環境に適応しようとした青年時代の実体験から、乱気流のような異質な環境の変化を楽しむような人生をあえて選択したのではないかと思える。

[注]“A Profile of Intellectual Growth” in A.G. Bedeian, Management Laureates: A Collection of Autobiographical Essays; Vol. I. Greenwich, CT: JAI Press, 1992.
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