いい高校、いい大学、いい会社…
キャリアの「入口」より大切なこと

東京大学経済学部教授・柳川範之×リクルートマーケティングパートナーズ代表取締役社長・山口文洋

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高校に通わず独学で勉強し、通信教育課程を経て大学教授に就任という異色の経歴を持つ、東京大学の柳川範之教授。そして、25歳で小さなITベンチャーに就職してから一念発起し、現在はリクルートマーケティングパートナーズ代表取締役社長を務める山口文洋氏。ともに人とは異なるキャリアを歩んできた二人が、これからのキャリアと教育のあり方を語る。対談前編。(構成/加藤年男、写真/引地信彦)

人とは違う道に進んでも
根拠のない自信を持ち続けた

柳川範之(やながわ・のりゆき)
東京大学大学院経済学研究科・経済学部 教授
1963年生まれ。中学卒業後、父親の海外転勤にともないブラジルへ。ブラジルでは高校に行かずに独学生活を送る。大検を受け慶應義塾大学経済学部通信教育課程へ入学。同大学卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士(東京大学)。主な著書に『法と企業行動の経済分析』(第50回日経・経済図書文化賞受賞、日本経済新聞社)、『東大教授が教える独学勉強法』(草思社)などがある。

山口 私自身は大学を卒業するまでは一般的なキャリアを歩んできたので、柳川先生のご経歴を拝見してとても驚きました。

柳川 高校には通わず、大学も通信教育ですから、大学教授という立場からするとちょっと変わった経歴かもしれません。

山口 通信教育の学生は、どんな生活を送るものですか?

柳川 私は当時、父親の仕事の都合でシンガポールにいたので一般の通信生とは言えませんが、多くの人は日中に仕事をして、夜にテキストを開いて勉強しています。基本的には自宅にテキストが送られてくるだけですから、自分で勉強し、レポートを書き、試験を受ける。また夏と秋の夜間にスクーリングがあるときは、地方の人は職場の夏休みを利用して上京します。

 いまでこそ冷房完備ですけど、私の頃はまだ冷房がなくて、ものすごく暑かった。さすがに扇風機はあるのですが、いつも先生のほうだけ向いていました(笑)。とにかくタオルとスポーツドリンクが欠かせない授業でしたね。でも、みな貴重な休みを潰して学校に通っているわけですから、授業は熱気に溢れていました。

山口 私は大学時代、本当に授業に出ていませんでした。学校には行くものの、食堂でひたすら友人を待つ。それまでは、ひたすらパチスロです(笑)。

柳川 当時は、いまみたいな仕事をしたいとは考えていなかったんですか?

山口 まったく思っていませんでした。親戚に専門職で羽振りがよい人が多かったので、何かのスペシャリストになるとお金が儲かるのかなと思い、公認会計士の資格を取るつもりでいました。だから就職活動はまったくしていません。勉強は大学を出てからやればいいと言って、それを逃げ道にしていました。

 なんとか留年することなく大学を卒業して、そこからの3年は公認会計士の受験勉強をしましたが、3年目に落ちたときに諦めました。ほどほどに勉強はしていたとは思いますが、バイトやら恋愛やら変わらずパチスロやら、真剣にのめり込めないまま惰性で続けていた部分はあると思います。

 自慢するのはおかしいですが、バイトでそれなりに稼げていたんですよ。パチスロの儲けを加えると、並のサラリーマンより手取りはよかったと思います。でも、3年目の試験に落ちたときはさすがに親に怒られて、そろそろ本格的にまずいなと。実際には、ほとんど勘当寸前でした。

柳川 山口さんは、少し遠回りされてから就職されたわけですね。

山口 はい。それから、第二新卒としてIT企業に就職しました。当時、リクルートの子会社で第二新卒を斡旋する会社があり、そこに友人が勤めていました。彼に会計士を目指していたという経歴を送ったら、求人票を10枚ほどくれたんです。IT企業の広告営業やコンビニの店長候補、コンタクトレンズの営業などがあるなかで、これはと思ったのが、ある小さなITベンチャーでした。

 その会社は、海外で使えるERPパッケージを開発していました。当時は日本企業が東南アジアに子会社をつくってどんどん進出していた時期で、現地の工場や販売会社の会計、サプライチェーンなどの情報をウェブベースで自社と手軽に連携できるシステムを販売していた会社です。多少なりとも会計の素養がありましたし、インターネットという最新の動向は気にはなっていた。かつ、グローバルな企業です。もともと海外に憧れがあったこともあって、規模は小さくても一番気に入りました。

柳川 目のつけどころがいいですね。

山口 何もできないまま25歳になってしまったので後がなく、「人生の一発大逆転を狙うしかない」という気持ちがありました。当時はベンチャー企業のIPOがよく話題になっていたので、ベンチャー企業に入って先輩たちと一緒に上場の夢を追う、それも世界に向けて、というところに憧れて採用試験を受けたら、丁稚奉公扱いで運よく採用してもらえました。社長からは3ヵ月でダメなら本採用にはできないと言われていたので、それはもう必死で働きましたね。

柳川 同世代の人たちから置いていかれたことで、劣等感はありましたか。

山口 やはり、多少はあったと思います。子どもの頃に母親から褒めて育ててもらったことで、妙な自己肯定感がありましたね。周囲から見れば、社会のレールから外れた単なる落ちこぼれでしかありませんが、自分は自分、自分しか見えない世界に進めばいいんだという気持ちがあった。まったく根拠はありませんが、そう思えていたのは救いになっていたと思います。

柳川 その気持ちは重要ですよね。根拠がなくても自信をもって自己を肯定する。私もずっとレールを外れていたので、その気持ちはよくわかります。

山口 柳川先生は普通のルートに戻ろうとは思われなかったのですか?

柳川 実際には、普通の学校に通おうと思えばそれはできましたが、このままでいいかなと楽観的でしたね。小学校4年生までは同級生と同じような生活を送っていましたが、銀行員だった父親がシンガポール勤務になったことがきっかけとなり、中学校1年生まではシンガポールの日本人学校に通いました。

 当時のシンガポールは独立してまだ10年ほどしか経っておらず、国家全体にベンチャー感が溢れていました。その雰囲気を肌で感じていたので、私を含めた家族全員に、この国では他人と同じことをやっていては生きていけないというマインドが醸成されていったように感じます。それが結局、その後の人生にも影響を与えたようです。

 その後、父親の都合でふたたび日本に戻ってからは日本の中学校に入りましたが、中学卒業と同時に父がブラジル勤務になってからは大きく道を外れ出したと思います。ブラジルには高校の日本人学校がなかったので、高校3年分の教科書と参考書を持っていき独学で勉強することにしました。

 とはいっても、真面目にはやるはずがない(笑)。サンパウロとリオデジャネイロにいましたが、昼間はだいたいビーチで寝そべっていましたね。そんな話をすると、焦らなかったのかとよく聞かれます。まったくないといえば嘘になりますけど、私も根拠のない自信があって、何とかなるだろうと思っていました。

山口 近くに日本人の子どもがいないと、比較しようという気になりませんからね。

柳川 そうなんです。それから、外れ方が中途半端だと不安になったりもするのでしょうが、他人と比較しようがないくらいうんと離れてしまうと、もういいやと開き直れるのでしょうね。

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