共感こそイノベーションの原動力である

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 ここまでを聞いて、私はCEOに典型的なエピソードを1つ話してくれるように頼んだ。以下はその引用だ。

 廊下で騒動が起こり、警備員が駆け付けると、完全に取り乱している男性がいた。重症の妻に付き添って来院していた夫だ。精密検査の後、妻が末期のがんであり、生きて退院することはおそらくないだろう、と告げられたのだ。雷に打たれたようなショックを受け、彼は我を失っていた。現場に呼び出された警備員がいまにも警察に通報しようとしていた時、1人の看護師が通りかかる。

 取り乱した夫が周囲に見境なく食って掛かっているのを目にした彼女は、彼に歩み寄り、静かにこう尋ねた。「抱きしめてもいいですか?」。男性がうなずくと、彼女は両腕で彼を包み込んだ。それから20分間、彼が白衣に顔をうずめてすすり泣いている間、彼女はずっと抱きしめていた。ようやく落ち着くと、男性は妻を支えるために病室に戻り、スタッフも職務を再開した。彼女は准看護師で、コンフリクト管理や緊張緩和に関する講習を受けたことはなかった。しかし他者とのつながりを築く方法については、多くの話を聞いていたのだ。

 CEOは私に言う。「すべてのエピソードがこれほどドラマチックなわけじゃないよ。でも、多くは君の涙腺を刺激するはずだし、そのすべてが君を笑顔にするはずだ」

 スタッフの何人かは、もっと思いやりのある言い方で患者に話しかけることを学んだ。たとえば経過観察の予約を担当する受付係は、「先生はあなたに、2週間後にまた来てほしいそうです」という言い方から、「先生は2週間後に、あなたをまたお招きしたいそうです」と言い変えると、相手が笑顔になる確率が高いことを発見した。それはささやかな変化だが、ポジティブな感情を生む。

 ただし、CEOがスタッフに常に言い聞かせているように、些細なことが患者の感情を乱すおそれもある。彼がたびたび口にするのは、数年前にレイクランド・ヘルスで出産した女性と交わした会話だ。新生児は健康と幸せに恵まれて誕生したが、病院での経験を振り返る母親の目は涙で溢れたという。

 病院に到着後、彼女に産科で最初に応対したスタッフは、顔も上げず、彼女を笑顔で出迎えなかった。希望と不安を抱えた妊婦は励ましを必要としているのに、それは与えられなかったのだ。落胆した母親は、数年経ってもその時の冷たい出迎えをずっと覚えていた。

「それで」と私は口をはさみ、「6000のエピソードは後で聞くとして、最終的に患者満足度はどんな結果になったのかな?」と尋ねると、CEOこう答えた。「90日以内に95パーセンタイル(上位5%)に入った。こんなことは初めてだよ」

 彼は続けた。「満足度が改善しただけでなく、臨床面の効果もあった。我々の仕事は、命を救い、健康を増進させ、希望を取り戻すことだ。患者の心の琴線に触れれば、そこには癒しの関係ができる。この関係性によって、患者はリラックスして、血圧が下がる。幸福感につながる神経伝達物質が活性化されるし、痛みも抑えられる。患者とケア提供者の両方にとって、良い結果になるんだ」

 ところで、このCEOとは私の弟、ローレン・ハメル医師である。

 彼の話の要点は、シンプルだが核心的だ。すなわち、共感はイノベーションの原動力であるということだ。だからこそ私は、現代社会の組織が非人間的になったことをしばしば危惧している。

 典型的なCEOのスピーチ、あるいは従業員重視を謳うウェブサイトでは、次のような言葉が頻繁に登場する――執行、ソリューション、アドバンテージ、焦点、差別化、優位性。これらの言葉に落ち度があるわけではないが、人間の心の琴線に響く言葉ではない。なぜ問題なのかといえば、人がイノベーションを起こすには、まず当人が何かに心を動かされる必要があるからだ。次に職場の同僚が、そして最終的には顧客が、やはり心を動かされる必要がある。

 20世紀初頭、ドイツの名高い社会学者マックス・ウェーバーは、近代について次のように述べた。

「我々の時代の運命は、合理化、知性化、そして何にもまして、世界の脱魔術化を特徴とする。究極かつ最も崇高な価値観が、公的生活から姿を消してしまった」

 それから1世紀後の今日、この言葉はいまだに的を射ているようだ。私たちの住む社会は宗教的価値観が薄れ、機械化され、没個性化されている。それをあらためて痛感するのは、たとえば無愛想な航空会社の搭乗席に押し込められる時だ。あるいは「カスタマーサービス」を受けるために延々と電話をたらい回しされている時。必要な申請書類があるとされる役所のウェブサイトで、迷路に迷い込んでしまった時もそうだ。

 もっと他のやり方があるはずだ。これらはイノベーターの熱意の産物であっても、利用者にとってはうんざりするほど非人間的な経験となる。

 スティーブ・ジョブズがアップルのCEO末期に行ったプレゼンの1つで、自社は「テクノロジー」と「リベラルアーツ」の交差点にいると述べた。もしジョブズが違う会社のCEOであったならば、建設とリベラルアーツの交差点、あるいは航空、銀行業、エネルギーとリベラルアーツについて語ったかもしれない。ジョブズにとって、リベラルアーツとは「人文科学」の別名だった。それは、古代ギリシャの哲学者が正義、美、善と称したものを、詩や散文、芸術、音楽などに凝縮したものだ。

 最良のイノベーションは、社会を良くするものであれ経済的な価値を生むものであれ、崇高かつ時代を超越する理想の追求から生まれる。すなわち喜び、英知、美、真理、平等、コミュニティ、持続可能性、そして何にもまして、愛――。私たちはこうしたもののために生きている。

 そして真に優れたイノベーションは、人々の人生を豊かにするものだ。だからこそイノベーションの核心は、世界にふたたび魔術をかけ魅了したいと強く願うことなのだ。


HBR.ORG原文:Innovation Starts with the Heart, Not the Head June 12, 2015

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ゲイリー・ハメル(Gary Hamel)
ロンドン・ビジネススクール客員教授(戦略論、国際マネジメント)。マネジメントの進化を目指す非営利研究機関、マネジメント・ラボのディレクター。新時代のマネジメントを再発見するオープン参加型プロジェクト、マネジメント・イノベーション・エクスチェンジ(MiX)の共同創設者。C.K.プラハラッドとの共著『コア・コンピタンス経営』(日本経済新聞出版社)が注目を集める。他に『経営の未来』(日本経済新聞出版社)、『経営は何をすべきか』(ダイヤモンド社)など。

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