どのような戦略も陳腐化する

成長カーブを再び描く新戦略が必要

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1980年代前半、P&Gジャパンの業績は低迷していた。経営スタイルは日本流と米国流のパッチワークで、“P&G流”と呼べるようなものではなかった。抜本的な変革を行ったのが、後にP&GのCEOとなるダーク・ヤーガー氏である。この変革でP&Gジャパンは業績を急拡大する。しかし、90年代に入ると戦略の有効性が失われ始めていた。P&Gジャパンは新たなリーダーの下で、新戦略を遂行し再び成長軌道に乗る。

P&G流の経営にはほど遠い
日本流と米国流のパッチワーク

 私は1979年に米国の大学院を卒業し、学生時代のインターン経験をきっかけにP&Gに入社した。米国本社で採用されてから30年あまり、世界各地のP&G拠点で働くことになる。最初の配属先は日本法人だった。18歳まで日本に住んでいた日本人なのだから、仕事もやりやすかろうと、そんな意図もあったのだろう。P&Gの新入社員として帰国した私は、日本法人の古い体質を目の当たりにしてがっかりした。

 当時の事情についての理解を助けるため、日本市場での事業立ち上げにさかのぼって説明したい。

 72年、P&G米国本社と日本サンホーム、伊藤忠商事の合弁によりP&Gサンホームが設立された。伊藤忠商事は仲介役的な立場なので、組織を構成するのは主に日本サンホームとP&Gの出身者である。経営の主導権を握ったのはP&Gで、それは資本構成に反映されていた。

 ただ、合弁会社という形態には難しいことも多い。76年にはP&Gの完全子会社(P&Gジャパン)として再スタートを切るのだが、その経営スタイルはP&G流と呼べるようなものではなかった。それは、日本流と米国流のパッチワークのようなものだった。

 最初に市場に投入した洗濯用洗剤「全温度チアー」では、米国流の比較広告が消費者から顰蹙を買った。77年に発売した赤ちゃん用紙おむつ「パンパース」はヒットし高い市場シェアを獲得したものの、石鹸や洗剤などを含めた商品全体を見ると期待にはほど遠い業績に甘んじていた。

 比較広告は一例に過ぎない。「これは米国で成功した」「欧州でうまくいっているから」といった理由で、同じやり方が日本に導入される。率直に言えば、日本の消費者を見ようとしていなかったのである。

 そこには、マーケティングにとどまらない根深い課題があった。P&Gジャパンの幹部の多くは、P&Gから派遣された外国人である。また、日本サンホーム出身者は従来からの日本的なやり方に慣れていた。そのギャップを埋めるという目的もあり、英語力を重視した採用活動を行ったが、その社員たちがマーケティングや人事などの業務に詳しいとは限らない。

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