アメリカ人恩師の言葉がキャリアの転機に
偏差値38の高校生が世界で活躍するまで

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単身アメリカに留学してUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業したのち、三菱商事、マザーハウスを経て、 28歳(当時)にしてミニット・アジア・パシフィックの社長に就任した迫俊亮氏。一見すると順風満帆なエリート・コースを歩んできたように見えるが、高校時代はけっして“優等生”ではなかったという。キャリアの転機となった、アメリカで出会った恩師に贈られた言葉とは。全5回。

K-1選手になるか、アメリカに留学するのか

――高校卒業後、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に進学されています。明確な目標があっての行動に思えますが、いかがでしょうか。

迫 俊亮(さこ・しゅんすけ)
ミニット・アジア・パシフィック株式会社 代表取締役社長。
1985年3月25日福岡県生まれ。2007年8月、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)社会学部卒。2008年4月、三菱商事株式会社に入社。2008年9月、バック・アパレルの製造小売ベンチャーである株式会社マザーハウスの創業期に参画し、日本での事業拡大、中華圏への進出等に従事。2013 年1月、ミニット・アジア・パシフィック株式会社に入社。東南アジア・中国事業の立て直しを経て、2013年7月より経営企画部長兼海外事業統括部長として営業・マーケティング体制の再構築に従事。2014年1月、同社常務執行役員営業本部長 兼 海外事業統括部長に就任。2014年4月1日、同社代表取締役社長兼営業本部長に就任。世界経済フォーラム(ダボス会議)による Global Shapers に日本の若手を代表するリーダーとして選出。

 経歴を見て、いわゆるエリートだと思われることがありますが、まったくそんなことはありません。高校1年生のときは、少しグレていた時期があって、茶髪に金メッシュ、ピアスにガングロで、「エミネム」を聴いているような学生でした。グレたきっかけを探しても、とくにないんですよ。単に何もできない人間でした。

 ボクシングをやっていましたが、地区代表に選ばれるわけでもありません。勉強はまったくできない。私の入学した高校は偏差値38、地元でももっとも入学が簡単な公立高校でした。何をやってもうまくいかないから、何をやっても続かない。毎日がつまらなかったので、髪を染めることしかできませんでした。

 ただ、高校1年生で人生を思い直すような出来事があり、そこで初めて、このままではマズいと思いました。そのときは、ボクシングをやっていたので極真空手を始めてK-1選手になる、NOVAに通って英会話を学んでアメリカに留学する、なぜかその2つを考えて(笑)英会話を選びました。

 英会話の勉強を始めてみると、すごく楽しいんですよ。アメリカ人であれば誰だって英語を話せます。英語はやれば伸びる。それまで、何かが上達して人に誉められた経験がなかったので、すごく嬉しかったことを覚えています。そのまま英語だけは続けることができて、アメリカに留学することを決めました。

アメリカ人恩師の言葉がキャリアの転機となる

――その時点では、UCLAへの入学が決まっていたわけではなかった。

 はい。ただ、当時はまだ自分に自信がなく、とりあえず2年制のコミュニティ・カレッジに通っていました。4年制大学に編入するための準備ですね。そこの語学コースで出会った先生がとてもいい先生で、そこから変わったと思います。プリンストン大学を卒業したエリートで、コミュニティ・カレッジには珍しい先生でした。

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