森下仁丹・駒村純一社長に聞く
「伝統に胡坐はかかない (前編)」

DHBRインタビュー

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銀色の粒仁丹で知られる森下仁丹は、今年で創業120年を迎えた。老舗企業の印象が強いが、実はいま、カプセル受託事業で業績を伸ばしている。なぜ同社はそのような最先端の分野へと進出したのか。代表取締役社長の駒村純一氏へのインタビューを2回に渡ってお届けする。


編集部(以下青字):なぜ120年もの間、事業を続けてこられたと思われますか。

駒村:120年事業は続いたが、120年優位に立ち続けたわけではありません。創業から50年は圧倒的に仁丹のブランド力に頼って事業を続けていました。今でもご年配の方は、圧倒的な優位を築いていた仁丹の時代を知っていらっしゃり、良いイメージを持っていただいている。

 一種の幻想かもしれないですが、それほど仁丹というブランド力は強かったのです。仁丹のブランドは賞味期限切れになりつつあるかもしれませんが、まだ賞味期限内で120年を迎えられたと言ってもいいでしょう。

――そのような強いブランドイメージをつくり上げたものは何だったのでしょうか。

駒村 純一
(こまむら・じゅんいち)

森下仁丹株式会社 代表取締役社長。
1950年生まれ。慶應義塾大学工学部応用化学科卒業後、三菱商事株式会社入社。化学品、ファイン・スペシャリティーケミカルを担当する。同社イタリア事業投資先Miteni社社長を経て、2003年森下仁丹株式会社入社(執行役員)。2006年から代表取締役社長。

 まず、創業当時、仁丹のような総合保健薬は存在しなかったのです。新たなカテゴリーをつくり、そこで圧倒的なシェアを獲得したことが、仁丹のブランドイメージをつくり上げたのだと思います。今は仁丹を口中清涼剤としてお客様に受け入れてもらっていますが、当初は病気を予防する総合薬、サプリメントのようなセルフメディケーションの面を強く打ち出していました。

 創業者の森下博が「病気は予防するものである」という考えに基づいて1905年に発売したのが仁丹でした。創業者のスピリッツと開明さは、仁丹の誇りでもあります。創業者は広告を通じた社会貢献や、明治の時代に仁丹をアフリカにまで輸出していたのです。国内外で仁丹は圧倒的な強さを誇り、大正11年の売り上げ番付を見ると、家庭薬のダントツの1位で、戦後も昭和40年代くらいまでは、その力が続いています。

――駒村さんが三菱商事から来られた2003年は、30億円の赤字を計上しています。

 財務面で非常に厳しい状況でした。創業以来の事業のコアであるヘルスケアの分野で、何とか森下仁丹を復活させねばならないという使命をもっていましたが、急に業績を伸ばそうと思ってもそうはいかない状況でした。

 競争はすでに変化しており、先行してシェアを占めている企業もあります。シェアを奪うには大変な労力と宣伝などにかけるお金も必要になる。そこで勝負しても勝ち目はないと感じました。そこで、銀の粒の仁丹と同じようなカプセルの中に液体を包む技術を、ヘルスケア・食品分野以外でも事業化できないかと考えたのです。狙いを定めたのは産業用でした。

――いきなりカプセル事業に力を入れる方針をとり、古くからいる社員の方たちから反発はありませんでしたか。

 組織の軋轢などには頓着しませんでした。気にしすぎたら何事も進まない。カプセル事業に注力するにあたり、外部からかなりの人を採用し、ポジションを与えました。もちろん既に役職についている生え抜きの人たちはいますが、餅は餅屋なのです。

 ビフィズス菌に強くても、産業用に用途を変えるとなると、今まで以外の知識が必要になります。上に立つ人間が広い視野を持たなくては、事業は育たない。ただし、古くからいる社員をポジションから外したのではありません。性格や仕事を考慮して、別の仕事を与えるといったことを行っていました。

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